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文漓は二月の終わりには、実家に帰らないといけないらしい。何やら婚約者に近い相手もいて、毎日隣に座る瀞に惹かれていたが、今だけしか一緒にいることはできないと言った。
孤高で人を寄せ付けない文漓は、とても可愛いのでモテモテだったが、当初瀞は良い印象を持っていなかった。基本無表情な上に、長い前髪で片目が隠れがちで何を考えているのかわからず、もう少し笑えばいいのに、と思っていた。
男装して通学する瀞もわりとモテているが、正体を知られたくないため、誰とも迂闊に付き合うことができない。互いに無関心な文漓と隣に座るのは気楽で、文漓もアプローチして来ない瀞に安心していたようだった。
その関係が一転したのは、ひとえに文漓の観察眼によるだろう。文漓はある時、人目のない場所で、本当は女の子? と不意に尋ねてきた。仕方ないので事情を話し、内密にしてくれるように頼むと、無愛想な文漓がその時初めて、心から嬉しそうに笑ったのだ。
じゃあ、二人だけの秘密だね、と。その笑顔のギャップに、瀞があっさり落ちたのは言うまでもない。
だから瀞は、「文漓がずっとここにいてほしい」と、月虹に願いをかけたかった。
ここで居候できたところで、それは叶わないかもしれない。遠い白光にいくら手を伸ばしても、掴むものは虚空ばかりだ。
それでも文漓が心配してくれたこと――バイトの話なんてしていないのに、瀞の窮状に気付いてくれたことが、ただ嬉しかった。人の願いとはそうして、手の届く温かみに触れられたなら十分なのかもしれない。
「……本当に、いいの? 茨月くん」
少ない荷物を慌ててまとめ、下宿を後にした瀞に、文漓が不安そうにまた尋ねてきた。
正式な引っ越しは後日にすればいい。バイトも辞める連絡を入れてやる。うきうきとした足取りの瀞と、兄妹共に静かな烙鍍の三人で、もう消えかけている月虹の下を歩く。
「いいのいいの。上手い話には裏が付き物ってくらい、昔から当たり前だしさ」
月光の天使という紫音や、それと付き合う烙鍍が兄であるなど、文漓は謎だらけの人物になってしまった。これからする「ツキモノ」の仕事も謎だらけだが、女に生まれたのに男である瀞からして謎なのだから、気にしないことにした。
「今日は本当に、月がキレイだな、文漓!」
星々なんて霞ませる月明かりの下で、あの時と同じように、文漓が幸せそうに笑った。
その光が幻と同じだとわかっていても、瀞は縋らずにはいられなかった。
-了-
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