消失

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 記憶を失った当時は、早く身元が残ってほしいと切に願っていた。そのほうが生活が便利になるかもしれないし、学校に行くことによりこことはまた違った生活ができるかもしれないと夢見ていたのだ。  しかし、いざ記憶が分かるとなるとこれらの利点が欲しくて知りたいような、自分の不利益になることは知りたくないような、二律背反の感情に僕は自分の事なのにどうしてか戸惑った。  その岸先生と僕は無言で二階から一階へと続く階段を下りた。素足に冬独特の冷気が伝わってくる。使い古された木製の階段は、僕らが歩くたびに木が軋む音がする。僕らの間にはその音しか存在しなかった。考えてみれば、先生も先生で僕の気持ちを悟ってくれていたのだと思う。  ただただ無言と言う気まずい空気が流れる中、岸先生が僕に茶封筒を渡してくれる。この中に僕のことが書かれているかと思うと手が震え、開けたく無くなってしまった。  ただ、いつまでもそうしているわけにもいかない。  岸先生の急かすような視線が、僕に突き刺さる。ため息にも似た息を吐くとともに覚悟を決めてから、封筒を開けると中の書類を取り出した。そこには僕の顔写真が右上に貼られ、その横に自分の情報が載っていた。
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