第1章

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      十二  第六十六番札所雲辺寺は、徳島県と香川県の県境三豊郡大野原町にある。雅宏と加奈子の乗った車は、国道五十五号線バイパスを経由して、国道十一号線徳島インターチェンジから、徳島自動車道に乗った。目指すは一路雲辺寺である。  池田パーキングから国道百九十二号線を走り、途中で県道八号線に乗って雲辺寺ロープウエイ駅まで行った。  四国霊場のうちでも最も高い九百十一㍍。四国山脈の山頂近くにある霊場で「遍路ころがし」と呼ばれる難所とされた。現在は麓からロープウエイで山頂駅まで登ることが出来る。住所は徳島県だが、霊場としては讃岐の打ち始めでいわば「関所寺」である。  縁起によると、弘法大師は雲辺寺三度登っている。最初は延暦八年、大師が十六歳のときで善通寺(第七十五番)の建材を求めてであったが、深遠な霊山に心を打たれて堂宇を建立した。これが雲辺寺の創建とされている。  二度目は大同二年大師三十四歳のとき、唐から請来した宝物で秘密灌頂の修法をなされたという。さらに弘仁九年嵯峨天皇の勅を奉じて登り、本尊を彫像して、仏舎利と毘盧遮那法印(仏法石)を山中に納めて七仏供養をし、霊場と定められた。  霊場には、俗に「四国坊」と呼ばれ、四国の各地から馳せ参じる僧侶たちの学問・修行の道場となり、「四国高野」と称されて栄えた。貞観年間には清和天皇の勅願寺にもなっている。鎌倉時代は七堂伽藍も整備されて、境内には十二坊と末寺八ヶ寺を有した古刹として阿波・伊予・讃岐の関所でもあったという。  天正年間に土佐の豪族長宗我部元親がこの地の白地城に陣して雲辺寺に参拝し、裏山から眼下を望み四国制覇を目指したが、当時の和尚に諫められた。雲辺寺の歴史にも消長はあるが、江戸時代になってからは阿波藩主・蜂須賀公の手厚い保護を受けた。千古の杉に囲まれ、雲に包まれながらも法灯を守っている。 「加奈ちゃん、三日間どうしてたの?」  三角寺から帰った二人は会っていなかった。それは互いの疲れを癒やそうということと、田舎の耳目を避けていたのだ。お互い独り身だから何をしようが咎められる筋合いはないが、二人の関係はいささか尋常ではない。    加奈子の母親美春はかって雅宏の恋人だった。その娘が母親の恋人と出来ているとなれば、これほどの醜聞はあるまい。ましてや小さな漁師町のことである。     
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