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その後、明治初年の神仏分離令で八幡宮は琴弾神社と神恵院に分離され、神恵院は麓の観音寺境内に移転。同時に八幡宮に安置されていた阿弥陀如来像も西金堂に移された。以降、「神恵院」は西金堂を本堂に、阿弥陀如来像を本尊としていまに至っている。
「由来をみると納得したけど、札所がみんなこんな省エネ札所で、二つ三つと並んでいてくれれば、お遍路さんも楽なのにねえ」
加奈子が有難みが吹き飛びそうなことをいった。
「苦労しながら、八十八ヶ所詣るのに意味があると思うよ……。一日で回れるミニ八十八ヶ所もあるらしいよ」
「へえ、そんな札所があるんだ!」
「世間にはいろんな人がいるからな。お四国参りをしたくても、何かの事情で行けない人、病持ちの人、体の不自由な人、行きたくても暮らしに追われて行けない人、貧しくてお金に余裕のない人など、数え上げれば切りがない。そんな人のために創られた札所巡りだと聞いている。こうやってお遍路旅に出られる人は、何がしかの屈託を抱えているといっても、ある面では恵まれた人たちだろうな」
そんな話をしているうちに次の札所に着いた。
第六十九番札所観音寺は、先の神恵院と同じ境内にあった。開基も創建の時期や由縁も同じであった。ただ、創建された頃の寺号は「神宮寺宝光院」と称した。以来、百年後の縁起からたどる。
大同二年弘法大師は琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来像を納めたとき、この寺の第七世住職となっている。
大師はそのころ琴弾大明神が乗っていた神船は神功皇后とゆかりがあり、観音の化身であると感得した。そこで大師は琴弾山の中腹に奈良の興福寺に倣って中金堂、西金堂の様式で七堂伽藍を建立し、その中金堂には本尊とする聖観世音菩薩像を彫像して安置した。
さらに、この地に仏塔を建てて瑠璃、珊瑚、瑪瑙などの七宝を埋め、地鎮をしたことから、寺名の神宮寺を「七宝山・観音寺」に改め、霊場に定められたとされている。
桓武天皇はじめ三代の勅願所となり、また室町時代には足利尊氏の子・道尊大政大僧正が住職として四十五年間勤めるなど、寺運は隆盛を誇った。だが、明治新政府の神仏分離令により本地仏を移し、一境内に二霊場となった。
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