第1章

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 そして加奈子がいわれた通りに振り抜いた。奇跡としか思えなかった。体がすぅっとしなり、頭が残った状態で振り抜いていた。ボールは真っ直ぐ百二十ヤードほど飛んで行った。  見ていた人たちからため息が漏れた。と同時に拍手が起きた。その後、五十球ほど打ったが十球だけ正面に飛んだが、あとは右左と球筋は定まらず気侭に飛んでいた。 「加奈ちゃん、ちょっと練習すればものに成りそうだ」 「雅宏さんも打って見せて……」    加奈子が後ろに下がり二、三度素振りして打席に入る。かなり緊張していた。教えた本人が無様な姿は見せられない。一呼吸入れてボールを置いた。加奈子を見に来ていた人立ちがまた寄って来た。師匠の腕を確かめに来たのであろう。  加奈子に教えた通り、ゆっくりと振り抜いた。加奈子と同じ六番アイアンだが球筋が違った。矢のようなボールが加奈子が落としたボールの遙か彼方に飛んで落ちた。 「凄い!」  加奈子が感歎の声を上げた。観衆?からやんやの喝采が起きた。その後、二人は一時間ほど打って、ゴルフセンターを後にした。  第七十番札所本山寺を含めて、竹林寺、志度寺、善通寺の四ヶ所だけが、五重の塔が目印となっている。  大同四年の建立だが、損傷が激しく明治四十三年に再建された。また、本尊は馬頭観世音菩薩で四国霊場では唯一のもの。頭上に馬頭をいただく観音様で、祀られている本堂のそばに馬の像が控えていた。  大同二年天城天皇の勅願により、弘法大師が七十番札所として開基した。当時は「長福寺」という名で、本堂は大師が一夜ほどの短期間に建立したという伝説が残っている。  およそ二万㎡の広大な境内には、国宝の本堂をはじめ、仁王門、五重塔、鎮守堂、大師堂、十王堂、赤堂(大日堂)、慰霊堂、鐘楼、客殿などが並び、大寺として栄華を極めた当時を偲ばせる。  天正の兵火では長宗我部軍が本堂に侵入の際、住職に刃をかけたところ、脇侍の阿弥陀如来の右手から血が流れ落ち、これに驚いた軍勢が退去したため、本堂は兵火を免れたといわれている。この仏は「太刀受けの弥陀」と呼ばれている。その後、「本山寺」と名を改め今にいたっている。 「さっきはごめん。大興寺の帰り道、ゴルフのことで嫌な思いさせて……。まさか雅宏さんが、あんな凄い球打つとは思わなかったから」
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