9人が本棚に入れています
本棚に追加
この男が家庭の主人然としている姿だけでも愉快なのに、あれこれ頼む時には下手に出ているんだろうか。具合が悪い妻の代わりに家事をこなし、産まれたら子育てするんだろうか、愉快だ、実に愉快だ。
新婚ふたりの笑いは想像を次から次へと呼んで止まらない。
「……私はそろそろお暇するとしようかな」と慎が膝を立てるのにかぶるように、呼び鈴がじゃらじゃらと鳴った。
「客かな、また電報かなあ」と腰を上げかけた幸宏より先に、ぱたぱたと小さな足音が玄関先に向かう。
この家にはもうひとり住人がいるのだと告げる足音だ。
慎は幸宏の顔に微笑が浮かぶのを見た。初めて見る友人の、面映ゆそうな、小さなしあわせが滲み出ているような穏やかな笑みだ。
「君の所はまだ電話を通してないのか?」わざと呆れ声を出して慎は言う。
「もうつけてるよ」幸宏は言い返した。
「だけどさ、今度は電話がついたってことを知らない人が多くて。未だに電報が主な連絡手段なんだ」
「さっさと結婚報告をしたまえ」
「そうする」
その時、訪問者とやりとりをしていた幸子の声がひときわ大きく響いた。
「武君、武君!」
「ええーっ」幸宏は拗ねた声を上げた。
「なんでまだ『武君』って言うんだよう。つまんないなあ」
「もう、子供みたいなこと言ってないで!」
柱の向こうから顔だけ出して幸子は手招く。
「お客様よ、早くいらして!」
「客? ここに? 僕がいるって知ってる人で客?」
「新聞の告示を見て来たそうよ」
「ふーん? で、誰?」
よっこいしょと今度こそ腰を上げた彼に、幸子は目を輝かせて言った。
「預けた本、返して下さい、って!」
一瞬言葉に詰まった彼は阿呆の用に口をあんぐり開け、慎と視線を交わす。
信じられないとどちらの顔も語っている。が、ふたりとも頬を紅潮させた。
次へ移る行動は幸宏の方が格段に早い。
立ち上がる前にまた踏み台になるのは御免と身を横にずらした慎の肩を押しのけ、普通の人ならつんのめって盛大に転びそうなところを軽やかな身のこなしを発揮して跳んだ。
大空を翔る隼のように、大きく、軽やかに、伸びやかに。
最初のコメントを投稿しよう!