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「お前は聞いていないのか」振り返って妻に言う。
「何でもかんでも把握していると思わないで下さいな」加奈江は冷たい。
ひとりで雲行きを怪しくして息巻く父親の耳に、表を回って庭先へ来る足音が聞こえた。
「ごめんなさい、間に合った?」
撮影用に少し良い服を着て、入念に化粧をした娘が入ってくる。
「出掛けに彼に会ったから、連れてきたの。今日、ロンドンへ発つ前に叔父さんにあいさつしたいから、って」
庭の隅っこで頭を下げる、かつての教え子の男子に慎一郎は会釈して、最悪のタイミングで現れたね、と思った。
「またそいつか!」
普段より小綺麗にしている娘が発する『彼』のひとことに異様に反応した政から、期待通りの怒声が上がった。
「誰って……大学の先輩で叔父さんの教え子の……って、何度説明しなきゃいけないわけ?」
娘は少しむっとして答える。
「付き合っているのか?」
「はあ?」
裕と、隅っこにいる元教え子はそろって言う。
違う違う、と娘は手を振った。
「ばっかじゃないの、お父さん。何言ってんの」
明らかに不機嫌な声で応える裕の頬は、ほのか赤く染まっていたが、娘の言う言葉と表情には、まったく一切耳を傾けず、気づこうともせず、政は叫んだ。
「俺は、絶対、許さんぞぉー!」
すみませーん、お時間なんですけど、いいですかあ? とカメラマン氏の声がのんきに響く、尾上家の本宅はとりあえず、平和な時間が流れていた。
マツリカの花が、フフフと笑うように風に揺れていた。
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