9人が本棚に入れています
本棚に追加
「はい、尾上ですが」慎一郎は目尻を下げ、やんわりと応じる。
双葉の父、慎一郎は、一頃ほどではないにせよマスコミの露出が多く、週刊誌のコラムに連載を持ち、著作もそれなりにあるので、街中で歩いていると声をかけられたり、サインを求められたり、写真を撮らせて下さいと頼まれることは普通にある。
今日もその手合いに見つかってしまったようだ。
こんな時、慎一郎は営業用スマイルで応じ、家族は一歩下がって良き家族を演じる。いや、別に演技はしなくてもいいのだ、彼の一家は今時珍しい円満でTVCMに出てくるような面々なのだから。
息子は知っている、特に眼鏡など必要のない父親が外出時に外すことがないのは、眼鏡のフレームで表情がわかりにくくなるのを期待してのことだということを。
いつものように一歩下がった双葉を、今日のご婦人方は見逃さなかった。
「あのう、息子さんですか?」
その声に応じ、双葉はぺこりと頭を下げる。
わああー、はじめて見たあー、と女性達は声を上げた。
「かわいいですねえ」
「お父さんにそっくり!」
かわいくて似てる。
……どっちだよ!
内心の葛藤は横へ置いておいて。
双葉は再度静かに頭を下げた。うるせえぞババア、どっか行きやがれ、と内心で毒きながら。
一言二言言葉を交わし、求めに応じてサインをし、写真を撮らせてご婦人方にご退散頂いた後に父親は言った。「行ったぞ」
「よくやるよな」
さきほどの殊勝そうな態度とは打って変わって、全身から逆立てた棘丸出しで双葉はつま先で床を蹴った。
「げーのー人じゃねえのに、毎回毎回飽きない? たまには断れよ」
父親はそれには答えず、腕時計に目を走らせる。
「そろそろ行くか」
「当然だ!」
親子は少し歩調を速めて展望デッキを後にした。
最初のコメントを投稿しよう!