追い風1000km

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「はい、尾上ですが」慎一郎は目尻を下げ、やんわりと応じる。 双葉の父、慎一郎は、一頃ほどではないにせよマスコミの露出が多く、週刊誌のコラムに連載を持ち、著作もそれなりにあるので、街中で歩いていると声をかけられたり、サインを求められたり、写真を撮らせて下さいと頼まれることは普通にある。 今日もその手合いに見つかってしまったようだ。 こんな時、慎一郎は営業用スマイルで応じ、家族は一歩下がって良き家族を演じる。いや、別に演技はしなくてもいいのだ、彼の一家は今時珍しい円満でTVCMに出てくるような面々なのだから。 息子は知っている、特に眼鏡など必要のない父親が外出時に外すことがないのは、眼鏡のフレームで表情がわかりにくくなるのを期待してのことだということを。 いつものように一歩下がった双葉を、今日のご婦人方は見逃さなかった。 「あのう、息子さんですか?」 その声に応じ、双葉はぺこりと頭を下げる。 わああー、はじめて見たあー、と女性達は声を上げた。 「かわいいですねえ」 「お父さんにそっくり!」 かわいくて似てる。 ……どっちだよ! 内心の葛藤は横へ置いておいて。 双葉は再度静かに頭を下げた。うるせえぞババア、どっか行きやがれ、と内心で毒きながら。 一言二言言葉を交わし、求めに応じてサインをし、写真を撮らせてご婦人方にご退散頂いた後に父親は言った。「行ったぞ」 「よくやるよな」 さきほどの殊勝そうな態度とは打って変わって、全身から逆立てた棘丸出しで双葉はつま先で床を蹴った。 「げーのー人じゃねえのに、毎回毎回飽きない? たまには断れよ」 父親はそれには答えず、腕時計に目を走らせる。 「そろそろ行くか」 「当然だ!」 親子は少し歩調を速めて展望デッキを後にした。
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