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彼女は、深夜営業を生業とする飲食店の新しい従業員だった。先日辞めてしまった給仕の代わりである。地上ではなく地下に人工の月を擁する店舗のオーナーは、色に関して性質が悪いと専らの噂であった。彼に手を出される所為で、従業員の勤務が長続きしないというのが、常連客の間では常識となっている。尤も、辞めたばかりの給仕とは、僕も一度だけやったことがあったので、噂の真偽は定かではない。一方、料理人の腕は確かであり、扱う酒の種類も豊富。大学に程近い場所柄だからなのか、集う人種の年代は若い。僕も件の大学に在籍しているから、その部類である。但し、群れるのは好みではない。大抵、カウンターの端っこで一人、時間潰しをしていた。始めに気になったのは彼女の声であった。何のグループかは知らないが、数人の男に囲まれた舐められ易そうな男が、入口付近で殴られていた。僕はその様子を漫然と眺めていた。よく見る光景だったからだ。お客様、他の方のご迷惑になりますので、ご遠慮願います。会計を済ませて頂いて、店外でならご自由にどうぞ。慇懃無礼とはこのことだろう。鼻白む男たちが出て行った後。あんた、こんな店には来ない方がいいんじゃないの。彼女が店内に一人残された気弱な男に声をかける。親切心から助けた訳ではないのかな。思いつつ、何度か声を聴いていて確信した。ねぇ、君さ。プラネタリウムでナレーションしてたでしょう。……してましたけど。だから? 答える直前にした一瞬の表情を、僕は見逃さなかった。彼女の左耳に光る紅石。退屈な日々の中で、鳴呼。束の間、僕を慰めてくれる羊を見つけたと思った。
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