【5】ふたりで生きる

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尚も言い募ろうとする政に、「この話はおしまい」と言って、いつも彼女の方から話を切る。 突き詰めて語り出すと意地になって、収拾がつかなくなることをお互いにわかっているから。 今日も、尚も説得を続けようとする政へ、加奈江は「ほらほら、先生のお宅についたわよ」と話を止めさせて彼を促し、何度訪れたかしれない部屋へ先に入った。 政は「そんな、機械みたいに書けるわけがないだろう」とぼやくが、彼女にはわかっている、儀式になっている道具の用意を始め、墨を手にすると、少しずつ気合いが入っていくのを。 何度その場に臨んでも、彼女も静かに興奮する。 ただの上手い文字を書く私と、芸術家の域へ昇ろうとする彼との違いを見せつけられる瞬間だ。 そして、毎度、彼に心の幾ばくかを持って行かれてしまう。 気力や、情念や、嫉妬、愛。 全ての感情が彼へ向かって流れ込んでいくのだ、それを受け止め、昇華させて紙の上に記す、彼。 お互いに性的な関係は結んでいない。身体で触れ合う快感はまだ知らないけれど、この瞬間、彼と私は間違いなく結びついている。エクスタシーに近い陶酔感はこんな感じなのだろうか、と加奈江は思う。 この興奮を味わえるのなら、自分の制作活動と引き替えにしても惜しくないと思えるくらいの。 政は、1枚、2枚で終わる日もあれば、何枚も何十枚も書く日もあるというのに、今日は紙の前に黙して座ったまま動かない。 何かに迷っているわけでも、行き詰まっているわけでもない、時を待つように動かなかった。 不思議だ。 何度か、同じような場面に立ち会ったことがある。 時として深海に沈むような重い空気は、息をするのも辛くなる。しかし、今日は違う。 緊張感より安らぎと落ち着きが、水盤に緩やかに廻る輪が拡がっていくように。 彼を取り巻く気配が、変化していく。 彼は間違いなく集中し、極に達している。 なのに、何故動かないの? 戸惑う加奈江に、政は「カナ」と声をかけた。
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