第一章

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 相談者は記入を終えたカードを、早蕨が見やすいように反転させてから差し出す。  名前は廣木良子。無職。家族構成は夫が一人きりで子どもはまだいない。その夫は英彦山建設の社長をしているということだった。 「ご主人は、えいひこやま建設の社長さんですか。凄いですね」  早蕨は、相談者の緊張をほぐそうとして話題を振る。相談を受ける時は事務的に本題から入るのではなく、まずは雑談から始めるようにと言われていた。 「それは“ひこさん”と読むんじゃよ」  すぐにガンさんに訂正された。 「ひこさん、ですか?」 「そうじゃ。福岡県と大分県の境にある霊山の名前じゃ」 「えっ、じゃあこの“英”って文字は要らなくないですか? 彦山だけで“ひこさん”て読めますよね」 「知らんわ。有名な山なんじゃぞ。日本三修験山のひとつに数えられるくらいだからの」 「そんなに有名な山なんだったら、だれか“英”の文字にも読み仮名をつけてあげようって人が、一人くらい出てきてもおかしくないのに」 「知らんわ」  ガンさんが呆れて議論を放棄する。それを静かに眺めていた相談者の廣木良子が、会話の相手を引き受けた。 「主人は埼玉生まれですが、会社を興した主人の父は大分の出なんです。義父が子どもの頃によく登った思い出の山の名前を会社に付けまして。英彦山は霊山ですし、会社を護って欲しいという願いもあったんでしょうね」 「その会社をご主人が引き継いだんですか」  相談カードには、夫の廣木稀介の年齢が四十七歳と書いてある。社長として特に若いというわけでもないが、父親の方は会社を息子に禅譲して引退するほどの年齢なのだろうか。 「急だったんです」  早蕨の素朴な疑問を察知してか、良子は自分から説明を始めた。 「半年ほど前に義父が倒れました。膵臓ガンでした。入院してからはあっという間で」 「それは……。お悔やみ申し上げます」  早蕨は『ご愁傷様』という言い方に、相手を小ばかにする時に使うような皮肉なイメージを持っていて、どうにも言葉に出しづらい。それに『ご冥福をお祈りします』というのも、そもそも相手が仏教徒かどうかも分からないうちは使用できないと思っている。それでこんな言い方をしてしまうのだが、もちろん本気で悔やんでいるわけではない。 「ありがとうございます。どうにか四十九日も済ませまして、ようやく落ち着いてきたところなんです」
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