第四章

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「山縣さんは、自分の身に何が起きたのか瞬時には理解できなかったと思います。面倒見もよく、信頼していた上司が突然殺人鬼に変貌するなんて、思いも寄りません。ただ自分が生命の危険に晒されていることは、本能で分かりました。そしてただ一つ心に浮かび上がったのが、貴女だったのです」  美乃は出来るだけ簡明に話をしているつもりだったが、それでも愛莉の脳裏には殺害の状況がありありと映し出された。事件当日の山縣朋の思いが、寸分もたがわず愛莉には分かった。  懸命に塗り絵に取り組んでいた柚奈が、母親の動揺に敏感に気付いた。タイトが止めるのも聞かずに母親の許へ歩く。  美乃は、近寄ってくる柚奈を目の端に認めながらも、最後の話を続けた。 「山縣さんが最期に遺されたメッセージ。意識も定まらないままに懸命に書いたそれは、無残にも野次馬たちに踏み荒らされてしまいました。でもこの部分だけは残ってましたよ」  鞄から一枚の写真を取り出して、愛莉に手渡す。現場検証の際に撮ったもので「しア……いソ」という文字がはっきりわかる。  愛莉は受け取った写真を、山縣朋の最後の言葉を、整理しきれない頭で必死に読みとろうとした。  母親を案じる柚奈が首を伸ばして写真を覗く。柚奈も最近ひらがなカタカナが読めるようになってきた。  その柚奈が声に出して文字を読む。 「……し、あ、い、り?」 「そう。柚奈ちゃんは山縣さんの娘だけあって、さすがに素直に読み取れたね。最後の文字はカタカナの『ソ』ではなく、『り』なの」 「お母さんの名前だもん」柚奈は自分の発見を嬉しそうに発表する。 「そうね。でも、この『あ』と『いり』の間にはスペースが空いてるよね。ここには何文字か入るの。山縣さんは離婚をしてまで家族を守ろうとした。このメッセージは、そんな山縣さんの最期の願いなのよ。しあ……いり。山縣さんが最期に書いていた本当の文字は、『しあわせに、あいり』」
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