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必死の思いで、ようやく動かせる右手の人差し指で、歯を食いしばって懸命に彼は文字を書いた。時間もかかった事だろう。思うように動かせない指が歯がゆかっただろう。それでも彼は最期の言葉を書き上げたのだ。
「ああ……ああっ!」
両手で顔を覆う母親を見て、柚奈も泣くような口になる。次いで母の代わりとばかりに、大きな声を上げて泣いた。右手の鈴が共振するように、存在を主張するようにカタカタと鳴る。
愛莉は、理由もわからず泣きじゃくる我が子をしっかりと抱き寄せた。タイトはかける言葉が見当たらず、窓の外へと視線を逃がす。
時間にしてほんの二、三分くらいだっただろうか。いつの間にか眠ってしまった柚奈を腕に抱え、やがて彼女は涙を拭った。
「ありがとうございます。悲しいのか切ないのか悔しいのか、まだよく分からないけど、とにかく彼の最後の言葉、受け取りました」
美乃が力強くうなずいて微笑む。
「そうね。山縣さんのためにも、あなたは幸せになる義務があるわ。無理をする必要はないから、つらい時はいつでも連絡して。後追いなんて考えちゃダメよ」
いまはまだ、靄っていた霧が晴れて全ての事実が明るみに出た驚きと感動の感情が勝っているが、落ち着いてくると次には犯人への憎しみとか愛しい人を殺された口惜しさとか無力感、絶望感だとかが周期的に襲ってくるようになる。全て時間が傷をいやしてくれる訳ではない。
事件が起きてからでなければ動けない警察にとって、被害者に近しい人々がそのような二次的被害を受けてしまわないよう予防に努めるのは重要な責務だと、美乃は考えていた。事実とはそのためにこそ、明らかにされるべきものなのだ。
子どもを寝室へ運ぼうとする愛莉に合わせるように、美乃は立ち上がる。タイトは既に玄関先まで来ていて、美乃のためにドアを開ける。腕につけられた男物の腕時計が目に入り、義姉がいま望んでいることが分かるような気がする。「後追いはダメ」そう言った彼女の思いが胸を刺した。
出水台ハウスの食堂に、住人たちが集まっている。
テーブルをどかせて作ったステージにギターを抱えた瞬太がひとり立っている。
室内の明かりを落としたのはムード作りのためでは無く、瞬太の緊張を和らげるため。
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