第一章

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「お願いします。あっ、最後に……」  相談は終了したと思って腰を浮かせかけていた良子を押し留め、タイトは素早い動作で立ち上がった。素直に見上げる良子に対し、満面の笑みを返す。 「最後にひとつだけ。容疑者扱いをされて稀介さんのストレスは相当なものでしょう。大丈夫ですか?」 「え、ええ。相当に堪えてます。食欲も全然ありませんし目に見えてやつれてきました。私も心配で心配で、それでご相談にあがったのです。早く容疑を晴らさないと、本当にどうにかなってしまうんじゃないかって」  この応えにどこか満足気に頷くと、タイトは力強い口調で言った。 「わかりました。出来るだけ早く稀介さんに会いましょう」  良子を出水台ハウスの敷地の外まで見送った二人は、しつこいセミの鳴き声に押し戻されるように玄関へと向かう。夜も暑いせいで昼間と勘違いしているのか、短い余命に全力で立ち向かっているのか、休憩時間を惜しんで鳴き続けるようだ。あと二週間もすればこれにコオロギや鈴虫の声がまざって季節を混乱させるだろう。県道一号線から引っ込んだ場所だから街灯も疎らで、部活動を終えた高校生が二人、重たそうなバックを脇に抱えて前の道路をパタパタと走っていく。  玄関でスリッパに履き替えたタイトはもう一度談話室に入って忘れ物のチェックをすると、湯呑を持ち上げてテーブルを拭いた。先を越された格好の早蕨が、申し訳なさそうに首を竦め、せめてもの活躍として談話室内の明かりを消す。 「もうこんな時間か。晩御飯、食べるでしょ?」 「あっ、はい! じゃあ私が作ります!」  タイトから夕食に誘われて、ここぞとばかりに調理担当を買って出た。高校生の頃から料理は好きで、彼氏に弁当を作ったりした時代もあったくらいだから多少なりの自信は持っている。とにかく、少しは気の利くところを見せなければ女子としての沽券に係わるではないか。  調理場には業務用の大型冷蔵庫があって、住人は自由に好きな食材を保管できるようになっている。勢い余って他人の食材を使う事もたまにはあったが、これまでのところ紛争にまで及んだケースもなく、それなりの秩序でのんびりとした共同生活を送っていた。  ガランとした食堂の中では涼香が美味しそうにカレーライスを食していて、その隣でガンさんが竹輪を肴にカップ酒を呑んでいる。
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