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その死体には首元に二つの深い刺し傷があった。
褐色に日焼けした首筋の左側に直径九ミリ、深さ六.五センチの刺し傷が、五センチほどの間隔を開けて縦に二箇所。死因は頸動脈裂傷による失血死とみられる。
死亡したのは埼玉県富士見市に住む建設会社社員の山縣朋三十才。現場は埼玉県日高市の農道で、見晴らしの良い場所のわりには碌な目撃情報が集まらず、捜査員を悩ませていた。というのもこれだけの深い刺し傷をつけられるような凶器が死体発見現場付近から見つからないため、世を憂えた末の自殺だなどと単純に認定して捜査を切り上げるわけにはいかなかったからだ。
近隣に住む七十五歳男性はこう話した。
「その日は夕方からコウモリが大量に飛び回っていて不気味だと思っていた。そしたら家の中に一匹飛び込んできてしまった。追い出すのに追われて、楽しみにしていた野球中継が台無しになった」と。
夜の二時ごろに現場付近を通行したという学生はこう言った。
「満月に見とれて歌っていたら、バイクで転んでしまった。バイクは破損したが、そういえば事故証明をとっていない。はたして保険はおりるだろうか」と。
碌な証言ではない。
もちろん警察は聞き込みをする際、証言者が主観で情報を取捨選択してしまわないよう「起こった事をありのまま」話すように指示するから、これらの証言は素直と言えば素直と言える。捜査員はこれらの中からダイヤの原石を見つけなければならなかった。
唯一有力情報と評価できそうなものに、四十七歳スナック経営者の証言がある。
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