第一章

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「帰り道で見たのよ。あの日は暑かったじゃない? あたしもお客さんに勧められて呑み過ぎちゃってさ。あれだね、お酒を飲んで汗かくとすごく蚊にさされるのよね。それでさ、アタシもいい気分だったから蚊も無礼講にしてたわけよ。知ってる? 蚊はね、最後まで血を吸わせてあげた方が痒くならないって。そしたらさ、このくそ暑いのにマントを羽織った人が、パアーって走ってったの。あれは不審者ね、絶対!」というものだ。  目撃した時間が深夜一時頃という事で、午前二時から四時の間だという死亡推定時刻には適合しないものの、それでも警察としては、その男だか女だかわからないマントを羽織った人物に希望を託して情報を集めるしかない。  玉石混交、というよりも泥まみれの砂利に思えるこれらの証言を、刑事部捜査第一課の蒲生巡査部長は、捜査ファイルの中に厳かに綴じ込んだ。今年鑑識課から異動してばかりの時に担当した事件で顕著な功績を残し、勢いづいている若手刑事だ。 「奥谷さん」 「なんだぁ?」  奥谷と呼ばれた男はインスタントのコーヒーに少量の砂糖とたっぷりの牛乳を流し込みながら、つまらなそうに口だけで返事した。調子づいた若手刑事が道を踏み外さないよう、いわばお目付け役として蒲生巡査部長につくことを命じられている。 「マントを羽織った人物って、やっぱり吸血鬼なんですかね」 「何を言っとるんだ、ヨーロッパじゃあるまいし。ここは和の国、日本だぞ」 「ヨーロッパにも吸血鬼はいないと思いますけどね。そうじゃないんです。見立てですよ。吸血鬼の仕業に見立てた犯行。ネットではそんな考察で今回の事件が盛り上がっているようです」 「お前、ネットなんかやってるのか」 「当然です。今どきの捜査には欠かせません」 「それは理解するが、どうも俺は好きになれん。面白がって無責任に騒ぐだけ騒いで、飽きたらそれっきりだ。周辺に住んでる人たちは今だに不安な夜を過ごしてるっていうのにな」  事件の背景が全くの不明で凶器も見つかっていない現状では、近隣の警戒態勢を解くわけにはいかず、子を持つ親は登下校時の付添い立哨を輪番で続けている。 「そもそもなんで吸血鬼に見立てる必要があるんだ? 犯人は吸血鬼に恨みでもあるのか」
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