第一章

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 ズズッ、と抹茶でも啜るように音を立ててコーヒーを吸い込む。奥谷警部は極端な猫舌で、コーヒーを飲むときは空気を一緒に吸って熱さを和らげるという癖がある。多量の牛乳で充分冷まされていたとしても、それに応じて飲み方を変えられるほど器用ではなかった。次いで別のカップを取り出して新たにコーヒーを淹れはじめる。 「でも起工式のために十字架を持っていたとしても、殺害時にそれを握りしめていたのは何故でしょう。被害者は、乗っていたと思われる車から五十メートルほど離れた場所で死亡していました。十字架を手に持って車から降りたというのは少し妙ですよね」 「ポケットに入れっぱなしだったんだろ」 「そうすると殺害時にわざわざ取り出した事になります」 「何かと取り間違えた可能性だってある。全ての行動に合理的な説明がつくわけでもない。それにまだ他殺と確定したわけでもないしな」 「自殺、ですか」  他殺の線が濃厚であることは捜査一課のチーム全員の共通認識と言ってよい。だからこそ、先ほどから二人とも被害者という表現を使っているのだ。  しかし自殺ではないと断定することも出来ない。それは被害者山縣朋の置かれた状況に自殺の動機があるかも知れなかったからだ。 「被害者は、ほんの一ヶ月前に離婚している。原因は被害者の浮気にあったようだが、離婚というのは人間が二番目にストレスを感じる事件だそうだ。子どもと別れるのも辛かったろう。山縣さんは大層子煩悩だったらしいからな」  奥谷警部は子どもの話をするときだけ、被害者を名前で呼んだ。 「子煩悩な人でも浮気をするんですね。普通、子どもの事を考えたら浮気なんかできないと思うんですけど」  蒲生巡査部長は結婚生活に幻想をいだいている独身者特有の、肩に力の入った正義感から持論を述べる。 「浮気なんかする奴は、場合に応じて都合の悪いことは忘れるものだよ。そうやって人間ってのは痛みを乗り越えていくんだ」
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