第一章

8/35
前へ
/142ページ
次へ
 出水台ハウスは、埼玉県南部の政令指定都市さいたま市浦和区にある、静かな二階建共同住宅だった。最寄駅はJR京浜東北線与野駅で、東口から徒歩で二十分ほどの距離になる。朝夕こそ高校生たちの登下校で賑わうものの、その時間を過ぎてしまえば人通りは疎ら。隣町の田んぼにはホタルの幼虫が放流され、夏には神社で祭りが行わる。町を巡る神輿は子どもたちの活気に威勢を示し、盆踊りは浴衣姿の女性で華やぐ。そんな小さな町だった。  出水台ハウスは、もともとは一部上場の大企業が独身寮にしていたものをリストラで売却した物件で、つくりはいいがアパートとするには若干不便な点があり、そのため賃料も手ごろな金額に設定されていた。  五台分の駐車場が配置された前庭は、業績が良かった時代の名残である庭園らしき植栽があたりを取り囲み、玄関前を守るようにそそり立つ公孫樹が伝える風の音と木漏れ日が、蒸し暑い夏を清涼にする。  明るい陽の光が差し込む玄関は左右に広く、五畳程度の沓脱の右側には靴箱が配置されていて、住人はここからスリッパに履き替える方式になっている。左側には独身寮時代の名残の在宅札が、オブジェのように記念物のように壁掛けられている。昔は仕事から帰宅した寮生がこの札をひっくり返すことで、寮長は寮生の在宅を知ることが出来た。さらに昔に遡ると門限まであって、酔っ払って深夜帰宅する寮生を鬼寮長が締め出すなんて事も割とよくあったらしい。今は管理人さんからの伝言の書き置き用として活用されている。  玄関正面には階段があり、その下の収納庫には住人共用の掃除機なんかが仕舞われていた。その隣の扉の先は談話室で、置き土産だった麻雀セットと将棋盤が出番をじっと待つように、脇に立てかけられている。  ベージュのチノパンに淡いピンクの五分袖シャツを軽く羽織った藤川タイトが鼻歌交じりにその談話室のドアを思いっきり引き開けると、中にいた二人は息を止めるように言葉を閉じた。机に広げられた何かの資料をさり気ない風に裏返す。入ってきた人物を目で確認すると、すぐに力を抜いて背もたれに体を預けた。 「なんじゃ、タイトか。このドアを開けるときはノックしろと言っとるじゃろ」 「ごめん、ごめん。いると思わなかったんだ。これから来客があるから、さ。ここ使うよ」
/142ページ

最初のコメントを投稿しよう!

29人が本棚に入れています
本棚に追加