追い風1000km・3 お母さんのおでかけ

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『あの習慣』とは、婚約時代に始めた、ふたりだけの符牒。 秋良が長期フライトで日本を発つ前に、慎一郎は愛しい女の手を取り、その内側に唇を寄せて強く吸って跡をつけた。ちょうど腕時計のベルトで隠れる位置にだ。 仕事柄、常に時計を見る彼女の目に触れるように、けれど他の人にはわからないように。この跡が消えないうちに、またここへ口付けると。 次に会う日までの約束、ふたりだけの秘め事だった。 が、恋人同士のささやかな約束事はどんどんエスカレートしていく。 手首から身体の他の場所にキスマークは付き続け、襟元高くスカーフを巻いたままで乗務しなければならなかったり、人前で着替えがしづらかったりした。 まず人の目に触れることがない所や、彼にしか見せたことがない箇所も当然ターゲットになった。 同居していた親に見られたらどうしよう、と冷や冷やした。「少し控えて下さいな!」文句を言うと、彼はしれっとして言った、「僕以外に見せる人はいるのかな?」と。 自分だけされるのもシャクで、「それはあなたにも言えることですわね」と、彼女も彼に倣った。 まあ、ふたりきりで楽しくいちゃつく時のちょっとしたエッセンスになっていたわけで、キスマークだけで終わるわけがないこの『習慣』は、結婚した後も長く続いたのだが、ある出来事を境にトーンダウンし、ぴたりとなくなった。 長男が産まれて成長し、言葉をしゃべり出すようになったある日、息子は言った、「これなあに」と。 所は自宅。母子がふたりで風呂に入ってる時だった、一馬は浴槽で母の身体を指差す。 そこには虫さされではない、前夜の名残を留める赤い斑点がぽちりとついていた。子供の目や口はあなどれない、いつどんな形で他人に伝わるか、何を言われるかわかったものではない。 「今度こそ控えてくださいな!」妻から顛末を聞かされた夫は、その訴えに応じて現在に至る。 その『習慣』を……再開させるとは……。 えええっ??? 知らず頬が、身体が火照る。
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