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「…………」
「あの日、仕事の区切りが悪くてお昼に差し掛かっていたから、部署に一人でいたんです。静かな部署にいたからこそ、ハッキリと音が聞こえたんですけど」
(――笹木のヤツ、この私を脅す気なんだろうか……)
香坂を落したいと言ったときに、さりげなく下田の転落事件に触れられ、何か知っているのかもしれないという邪推から、今回は手を貸してやった。
それが確信に変わった今、自分の身を守るべく、笹木に手をかけなければならないのかと考え始めたときだった。
「聞いた音だけじゃ、証明になりませんよね。その音を録音して、証拠を残したワケじゃないですし。それに安田課長は、俺の恋のキューピッド様なんですから」
「はっ、キューピッドっていう年でもないだろ」
「いえいえ。ただちょーっとだけ、イジワルしたかったんですよ。大事な下田先輩の最期を看取った安田課長に、ね」
どこか挑戦的な笹木を座ったまま見上げると、怜悧な眼差しで見下される。
底の見えない何かに、今すぐにでも手を下したいところだが――香坂以上に機転の利くコイツが、何かを隠し持っている恐れもある。それを暗に示すために、音のことを漏らしたのかもしれない。
「それじゃあ安田課長、お世話になりました。恋人仮契約は、無事に解消ってことで」
(――こんな厄介な男に落された香坂が、えらく不憫だな)
「はいはい、お疲れ様。どうかお幸せに。香坂を煮るなり焼くなり、お好きにどうぞ」
香坂の不幸を考えたが、一瞬でそれが消え失せた。他人の不幸は蜜の味というけれど、何も感じたりはしない。所詮は他人事、関係ないのだ。自分が安泰であれば、それでいい。
「言われなくても、近いうちに戴きますって。案外、下世話なんですね」
瞳を細めながら口元に嫌な笑みを浮かべて、颯爽と出て行った。
「やれやれ、下世話と言われてしまったよカゲナリ。お前の後輩は、面倒くさいヤツが多くて困るね、まったく」
よっこいしょっと声をかけて立ち上がり、うーんと伸びをする。
やっと面倒なことから解放され、独り身の自由をこれでもかと味わうべきなんだろうが――。
「笹木のヤツが尻尾を出すかどうか、それを見極めてから、この先のことを考えるとしよう」
ヤツの動向を追いかけるべく、喫煙室をあとにした。
自分を……心の中にいる愛する人を守るために、私は罪を犯す――かもしれない。
【了】
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