第1章

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きっとこの先これよりも美しいと思える海を見ることはない。まだ若かった僕は夜の海が初めてだ。そして好きな人と二人で見るのも初めてだ。まして屍体を見に行くという非日常の空間。まるで夢。 「夜に屍体を見に行くなんてさすがにちょっと怖いね」夜の寒さも手伝ってか先輩はぶるっと震えた。 「大丈夫ですよ」 ここで手でも握れる勇気があればいいのだけど。ただの先輩後輩だ。色なんてない。勇気が勇み足になったら…。きっと先輩はもう二人で会おうとしないだろう。だから言葉で先輩を温める。「大丈夫ですよ。独りじゃないですよ」 「夜だとわかりにくいなぁ」ときょろきょろしてると視線が止まる。「居た」あそこだよと僕を促す。そっと肘に手を添えて促す。冷たい手だ。僕の鼓動が速くなる。心臓が大きく揺れる。 少し歩いた先にそれは居た。 月夜に照らされたその物体は黒い風船のようだった。ぱっと見には犬の面影なんてない。丸々と太った肉塊でしかない。言葉を失った。毛があることが獣を感じさせるのがせいぜいだ。魂が抜けるとただの物体になる。そこには生命の欠片さえ感じられない。 隣で空気が揺れる。目を向けると、先輩は両手を合わせていた。人はなぜ手を合わせるのだろう。掌には何かをつかむ力があるのだろうか。何かを包み込む優しさがあるのだろうか。そんなことを思う。 自然と僕も手を合わせる。 どうか魂が安らかでありますように。 祈り。 人は屍体に向かって祈る。仏に祈る。神に祈るのとどっちが尊いのだろうか。 先輩はまだ祈っている。長いのか短いのかわからない。夜の海は静かだ。さやさやと波がかすかに打ち寄せる。寄せては返す。そこに恐怖は感じない。夜の海は優しかった。穏やかだった。 溺死ってどれほどの苦しさなんだろうか。 「溺死って1番苦しい死に方だって聞いたことある?」 耳にしたことがある。肺呼吸の生物にとって空気を吸えない苦しさはいかほどだろうか。洗面器に顔を付けて息を止める30秒ですらすごく苦しい。 小学生の頃に訪れたあの海はどこだったろう。ここと同じ太平洋だったか。まだあまり泳げない僕は浮き輪でぷかぷかしていた。 高い波が突然起こり浮き輪ごと飲まれた。波の中で錐もみになる。息ができない。上も下もわからない。感覚がどこかに流される。 苦しい。苦しい。苦しい。
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