第1章

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そこは、意識していける場所じゃない。ふと足を止めて後ろを振り返ると、ポツンとあるようなところだ。屋敷の下働きの俺だけが知っているのか、それとも他の連中も知っていて黙っているのかはわからない。ほっと一息ついたり、辛いことや嫌なことがあるとそこにたどり着く、瞼を閉じて、数秒、数えて目を開く。 カラカラと機織りの音が襖の向こうから聞こえてきて、俺は廊下側に座っている。時間はいつも夜で月のでない真っ黒な夜空に機織りの音だけが響いて、 「また、来てくれたのね。佐次」 佐次、佐次勇太郎(サジ、ユウタロウ)と襖の向こう側から少女の声がする。おそらく俺と同い年くらい、十六くらい、声から女の子。 「別に来たくて、来てるわけじゃない」 そっけなく答える。襖を隔てた向こう側で、女の子、空(カラ)がクスクスと笑う。 「なんて、言ってるけれど、おかみさんにどやされたのでしょう? お遣いすっぽかしてサボってたんだから」 「なんで知ってんだよっ!!」 「知ってるわよ。だって、ここに住んでるんですもの、そんな話くらいいくらでも聞くことができるわ。特に佐次の失敗談とか」 私は耳がいいのよと。空が言う。そのわりには空なんて奴、この屋敷に住んでいるなんて聞いたことがなかった。この屋敷には雇い主の旦那様と奥様、下働きの使用人など、数多くの人間が住んでいるが、俺と同い年くらい、女の子が居るなんて聞いたことがなかった。 「ずっと部屋の中にいるのは、退屈なのよ。ねえ、佐次、何か面白い話をしてちょうだい」 じゃあ、襖の向こう側にいるのは、誰なのかという話になるが、それはただの下働きの俺には触れてはならないことなんだと思うようにしていた。知らないふり、見ないふり、聞かないふりは、この屋敷では当たり前のことだ。 「そんなのいきなり言われて、話せるわけないだろ」 旦那様や奥様のこと、屋敷のこと、許可されていない部屋には絶対に入らないことなど、雇われた時にキツく言いつけられている。友人、知人の交友関係ではなく、雇用関係の繋がりにそこまで深く首を突っ込む理由はない。藪に蛇なんて、まっぴらごめんだし、下手に首を突っ込んで、解雇されたらたまらない。相手が何者かなんて、詮索するだけ無駄だと切り捨てて、無関係だと割り切る。 「つまらないわ。ほんとにつまらない男、そこは気をきかせて、面白い小話一つ、用意しておきなさい」
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