凪の海

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 その中でも、ミチエは群を抜いていると、千葉高の生徒達の目には映ったようだ。小柄ながらバスケットで鍛えられたひきしまった体型とアジア美女の基本とされる凛とした切れ長の目元。ショートカットにした髪先が、白いうなじに遊び、見ている男子生徒を一向に飽きさせることが無かった。  ミチエに見惚れる千葉高生のほとんどは、当然手紙でも渡して話しができるきっかけを作りたいと願うものの、当時では女子高校生にラブレターを出すなど、不良行為以外のなにものでもなかった。近づきたくとも近づけない花に身を焦がす。自分のIDを気軽に交換してLINEをやり取りする、今の高校生には考えられない時代だ。  それでも中には恋文を渡す暴挙に出る猛者が、ひとりやふたりはいるものだ。手紙を握りしめ蛮勇を振り絞ってミチエの前に立ちはだかっても、しかし、ミチエはそれを決して受け取らなかった。千葉高生には申し訳ないとは思うが、日々を忙しく過ごす今のミチエにとっては、男子など何の関心の対象になりえないし、だいたい読む暇すら無い。  後日談であるが、ミチエの前に立ちはだかった生徒の中には成人した後にイケメン男優となって銀幕の大スターになった人物も居た。彼がスクリーンやテレビに頻繁に顔を出すようになると、ミチエはもったいないことをしたと、一緒に観ている夫を笑わせたこともある。 「みっちゃん、ちょっと待って。」  バスケットの練習の為に体育館へ急ぐミチエを、クラスメイトが呼びとめた。 「なに?アオキャン。」  アオキャンとはこのクラスメイトの愛称である。 「みっちゃんに頼みたいことがあるのよ。」 「なに?今部活で急いでるんだけど…。」 「すぐすむわ。」  アオキャンは、胸元に抱いていた雑誌をミチエに差し出した。それは大衆娯楽雑誌『平凡』である。 「それがどうかした?」 「みっちゃんさ、『文通運動』って知ってる?」  『文通運動』本来それは、楽天的な女子高生が口にするようなものではない。エリートと大衆のあいだに大きな断絶の存在した1950年代、『思想の科学研究会』という任意団体が、小集団活動を重視し大衆の中に入り込む大衆文化研究がおこなわれていた。その研究会のメンバーのほとんどは、京都大学人文科学研究所のメンバーあった。
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