凪の海

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 ロドリーゴ氏がまた娘に何かつぶやいた。娘は、ちょっと困った顔をしたが、父に促されて汀怜奈に父の言葉を伝えた。 「しかし、残念ながらテレナのギターラでは『ヴォイス』が聞こえてこないと言っています。」 「ヴォイス?」 「そのヴォイスは聞いている者に、魅力とか感動とかを越えた何かをもたらすのだそうです。」  汀怜奈はギターを抱いたまま考え込んでしまった。ロドリーゴ氏は、見えない手で汀怜奈を探し、彼女の肩に手を添えるとかすれた声でスペイン語を話す。汀怜奈は何を言っているか解らず娘さんを見た。 「セニョリータ・ムラセのギターラを聞くと、死へ旅立つものですらその瞳に安らぎの笑みが浮かんでくる。そんな『ヴォイス』を持ったギタリスタになって欲しいと言っています。」  演奏を聞いて、彼女ならそれを成し遂げてくれるに違いないと確信したからなのだろうが、このスペインの巨匠は、うら若き21歳の演奏家に、なんという重荷を背負わせるのだろうか。  自分の人生の幕が下りるのはそんな先ではない。それを薄々感じていたこの偉大な作曲家は、自ら抱えていた音楽の命題をこの若き演奏家に託したのである。  ロドリーゴ氏の体調を考え面会は15分間で終わった。短い面会ではあったが、汀怜奈にとっては、その後の彼女の一生を左右する重要な15分間となった。  ロドリーゴ氏と汀怜奈の崇高なやり取りがあった頃、日本の佑樹はまったくその対極の状態、つまり『昼からずっとベットに横たわり、アホ面で股ぐらを掻きながら、天井を眺めている不抜け状態』にあった。  高校野球の夏の予選では、佑樹は見事にレギュラーを勝ち取った。会場の江戸川区球場にやってきた佑樹は、まっさらな公式戦ユニフォームの背中に4番を付け武者震いが止まらなかった。第1回戦の相手は、長髪の部員も混じった名もなき都立高校の野球部。だれしもが私立の駒場学園高校が難なく2回戦に進むと予想したこの対戦に、佑樹たちは呆気なく破れた。  あまりもの呆気なさに、選手たちは涙も出ない。監督は早々と切り替えて新チーム作りにグランドへ戻り、父母たちはかける言葉も失い帰宅を急ぐ。試合を終えて引退した3年生たちだけがポツンと球場に残された。 「おい、これからどうする?俺たち…。」  誰と言うわけではなくチームメイトのひとりがつぶやいた。 「カラオケでも行くか…。」
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