凪の海

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 佑樹はそう言うが、実は父は試合を観に行っていた。臆病な父は、球場で別れた元妻と顔を合わせるのが嫌でひとりでこっそり観ていた。そのあっけない敗戦に、父も茫然自失となり、記憶の無いまま江戸川区をさまよい歩き、気がついたら葛西臨海公園の人工浜で膝まで海に浸かっていたという逸話を持つ。我に帰るのがもう少し遅ければ、確実に海の底に沈んでいたにちがいない。 「わかったよ。そこまで言うなら、洗濯ものはいいから、じいちゃんに白湯でも飲ませてやってくれ。喉が渇いてるようだから。」  じいちゃんを持ちだされたら、佑樹は抵抗が出来ない。彼はじいちゃんが大好きだった。  じいちゃんも、娘(伯母)と息子(父)のふたりの子どもを男手ひとつで育てたのだが、父とはその理由が異なる。早くして妻に先立たれたのだ。その苦労の末に、今は大腸癌を患い在宅看護を受けている。  佑樹は渋々ベッドから起き出して台所に降りると、ストローのついたコップにぬるいお茶を入れてじいちゃんが寝ている居間にいった。 「ヤスヒデか?」  ヤスヒデというのは、佑樹の父の名だ。じいちゃんの癌はもう末期のステージに入っていて、抗がん薬でなんとか押さえているものの、もう鎮痛剤が必要なレベルまで進行していた。鎮痛剤を打っている時は、頭が上手く動かないらしく、佑樹と父を取り違えることが多かった。 「佑樹だよ、じいちゃん。」 「ああ、そうか。…ヤスエはどうした?」 「やだな、大阪に居るの知ってるでしょ。」  佑樹の伯母、つまり父親の姉は、じいちゃんの強い希望もあり、小学校を卒業すると同志社女子中に入れるために京都の曾お祖母ちゃんのもとに住まわせた。伯母はそのまま同志社女子高、同志社大学と進み新島襄の理念に純粋培養され、卒業すると同時に地元で結婚して今は大阪に住んでいる。 「ほら、喉渇いただろ。」  佑樹はじいちゃんのくちもとにストローを運んだ。じいちゃんは美味しそうに喉を鳴らしてコップのお茶を吸い上げる。喉が潤い、頭も幾分かはっきりして来たようだ。 「佑樹。」 「何?じいちゃん。」 「お前、バットを置いて空になった手に、今度は何を握ったらいいかわからず悩んでるんじゃないか?」 「えっ?そっ、そんなことないけど…。」  じいちゃんは居間に寝たきりで、なんでそんなことがわかるのだろうか。
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