凪の海

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 今日、彼の心を乱しているのは、彼が属する同志社大学新聞部の部員のひとりが、実は警察の公安部とつながっていたスパイであることが発覚したことに起因する。その部員が、不自然に中途退学した直後、その知らせが伝わってきた。今まで、盃を片手に肩を組んで、社会や政治について語り合っていた仲間がスパイだったとは。そのことがショックで彼は自分の気持ちを整理したかったのだ。  泰滋は多感な中学生時代、戦時下のファシズムを経験している。しかしまだ柔軟な年代であったせいか、価値観の崩壊による自己破綻もなく、戦後の大変革に比較的スムーズに順応できた。一転自由と民主主義に塗り替えられた社会でも、今度は赤狩りという統制が見え隠れする。ただでさえ自由な風潮の学園である同志社の中で、しかも先端的な主張を展開する新聞部員の彼にしてみれば、管理や統制を連想させる体制に、理由の無い嫌悪感を持つのはいたしかたないのかもしれない。この感情は、生涯彼の心に住みついて、交通機動隊であろうと警察官に呼び止められるたびに、理由もなく身体が硬直する習慣は、死ぬまで抜けなかった。 「泰滋ちゃん。もう家に戻りよし。冷えてきたさかいに…。」  泰滋を心配して様子を見に来た母 時子が、川岸の暗闇の中からようやくひとり息子の背中を見出して声をかける。時子は山梨から京都に嫁いだ。京都の排他的な習慣やしきたりに苦労しながら、ようやく身につけた京都弁で語りかけるが、ネイティブな京都人が聞くと微妙にイントネーションが違うことに気づく。  時子にとって泰滋は、夫の泰蔵と長年待ち続けてようやく授かったひとつぶ種。当然ひとりっことしてそれなりに甘やかしてはいたのだが、身体が弱く時折寝込む時子に代わり、家事の手伝いなどするなど、誰の教育と言うわけでもなく、家族に気遣いのある優しい息子に育っていた。 「ああ、おかあはんか。驚くよってに急に声を掛けんといて。」 「そやかて…。」 「もうええわ。帰ろか。」  脅かされる言論の自由を深く憂慮するのもいいが、今日はこれくらいにしておこう。暗闇の中で心細そうにたたずむ母を見ては、泰滋も気持ちを切り替えざるを得なかった。身体の弱い母の肩に自分の上着を掛けて、彼は母と連れだって家に戻った。
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