凪の海

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 ようやくお米も研ぎ終わり、釜をかまどに据えると、今度はおかずの準備をしている母の手伝いだ。やがてご飯も炊け、おかずも食卓に並ぶと家族全員居間にやってきた。さて、炊けたご飯をお櫃に開けようと釜のふたを取った時だ。 「きゃっ!」  ミチエは驚きのあまり台所で小さな叫び声を上げた。白いご飯の上に大きなミミズを発見してビックリ仰天。ミミズはご飯とともに見事に炊きあがっている。薄暗い庭先の水場でお米をといでいる時に、知らないうちに紛れ込んだのか…。 「ミチエ、どうしたの。」  居間で箸を配っている母の声がした。 「べ、べつに…。ちょっと釜の蓋が熱かったから…。」 「気をつけなさいよ。」  母がご飯より自分を心配してくれるのは嬉しかったが、事実を告げて炊き直すわけにはいかない。そんなことしたら腹を空かせた兄姉妹たちに殺される。ミチエは恐る恐るミミズを指でつまむと窓から外に投げ捨てる。そのまま、ご飯をお櫃に移し替えた。 「あら、みっちゃん。食べないの?」  ごはんにいっこうに箸を付けぬミチエを訝しがって妹が聞く。 「いつもは箸もいらないくらい下品に掻きこむ癖に…。」  母が、ご飯をつつましい小口に運びながら言い添える。  それでも答えられず黙っているミチエ。 「お前が食べないなら、もらうぞ。」  兄がミチエのご飯を横取った。ミチエは今夜の食卓のことは、一生口にせず墓場まで持って行こうと決心した。  空腹で寝付きの悪い夜を過ごしながらも、翌朝は誰よりも早く起きだして、朝ご飯の米を研ぐ。そして昼は学業と部活で走り回る。こんな毎日が、朝飯を食べながら昼飯を心配し、昼飯を食べながら晩飯を心配する彼女の性格を育んでいったようだ。  さて泰滋とミチエが同じ月を見上げていた時から52年後。二組目のカップルが見ていたのは、2002年5月 フランス・パリのベルシー体育館で行われているK―1グランプリ バンナ対ハント戦である。  21歳の汀怜奈は、ギターケースを抱きながらリングから遠い安い席で大声を張り上げていた。人相の悪いフランスの大男どもに囲まれて、うら若き東洋の淑女がひとり。あまりにも浮いている情景ではあったが、それでも汀怜奈は周囲に構わず、目の前のリングで繰り広げられている壮絶な闘いに集中していた。
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