凪の海

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 汀怜奈は震える手で封を開けた。 「ねえ、汀怜奈はスペイン語もわかるの?」 「いえ…でも手紙は丁寧なフランス語で書いてあります。」 「ねえ、なんて書いてあるの?」  手紙には、父ホアキンが、セニョリータ・ムラセを自宅で待っていると書いてある。汀怜奈は、本日2度目の感動に、目元を潤ませた。  汀怜奈のペンションから9730km離れた場所で、ひとりの高校生が汀怜奈と同じく目元を潤ませていた。彼の名は佑樹。17歳の高校球児である。汀怜奈同様バンナ対ハント戦を観ての感動の涙なのだが、理由がいささか汀怜奈と異なる。佑樹はアウェイにも拘わらず、果敢に闘うハントの姿に感動したのだ。  高校野球部に属する佑樹は部活に忙しくて、パリのK―1GPをライブ中継で見ることができなかった。練習をさぼるわけにはいかないし、かといってビデオで撮っておいてくれるような気のきいた家族など居ない。仕方なく授業をさぼって、東京渋谷区にある母校、駒場学園高校図書室のインターネットコーナーに潜り込み、配信された動画で観戦した。  ハントのファンである佑樹は闘いの結果に落胆するが、右目の奥の骨を骨折してまで闘いに出ようとするハントはさすがだった。打たれても前に出るそのガッツ。自分より大きいバンナを相手に、一歩も引かない。小柄な佑樹は、自分より大きい敵に立ち向かうハントに、一層の共感を深めたのかもしれない。  そう、小柄な佑樹は高校野球でも下働きが多かった。誰の遺伝子の影響か運動神経は抜群に良かったが、試合ではなかなか使ってもらえず苦労した。しかし、耐えて練習してアピールして、3年になってついに練習試合でも時々、第1試合にセカンドで7番打者として先発するまでになった。あと2か月もすれば夏の大会の予選が始まる。その時にひとケタの背番号を付けるまではあと一歩だ。ハントが見せたあの闘争心こそ、今の自分にもっとも必要なものだと感じた。  思い起こせば、小学校2年の時に近所の少年野球団に入ってから、シニア・高校野球と10年間にわたり野球一筋。わき目も振らずここまで来た。その10年間の総決算が2カ月後にやってくる。 「へっ?…なんだこれは。」
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