凪の海

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 バンナ対ハント戦の動画を何度も繰り返して見ているうちに、観客席に気になる映像を見いだした。佑樹は、切れ長の目をこすりながら、あらためてパソコンのモニターを覗き込む。小さくはあったが、そこにはフランスの観衆に肩車されてバンナの勝利を喜ぶ東洋の若い女性が映し出されていた。腕にギターケースを抱え、興奮して何やら叫んでいる。もちろん何を言っているのか聞こえようもないが、格闘技の会場にはおよそ不釣り合いなキャラクターだ。 「やっぱ、パリって訳分からない人種が多いんだな…。」  もちろんパリになど行ったことのない佑樹だから、勝手な解釈をするのも当然と言えるしかし、よもや映像に映っているこの『訳分からない人種』が、その後の自分の人生に大きく関わってくるようになるとは、その時は知る由もなかった。 「おい、佑樹。部活に遅れるぞ。」  授業を終えたチームメイトが教室から彼を呼びに来た。  野球部のグランドは多摩川の河川敷にある。母校から渋谷駅へ戻り、東急線で新丸子までいかなければならない。佑樹は、練習着の入ったバッグを肩にかけ、チームメイトとともに駆け出して校門を出た。  ミチエの千葉女子高は、本来であれば稲毛にあるのだが、戦火の影響で校舎の改築が必要になり、生徒たちは校舎工事が終わるまで、一時的に千葉高の校舎を間借りしていた。千葉高とは県立で国立千葉大学に直結する地元の秀才たちが集まる進学校。当時は共学というのはほとんどない時代で、当然千葉高の生徒はみな男子である。今考えても、なんで千葉県教育委員会は、そんな飢えたオオカミの群れの中に、うら若き処女達を送りこんだのかと首をひねらざるを得ない。諸事情から、どうせオオカミの群れの中に彼女たちを送り込まなければならないなら、進学校である千葉高のオオカミが一番理性的で安全だと考えられたのだろうか。若き血潮の欲望を抑制するのに、IQなどなんの役にも立たないのに。  普段は殺伐としている千葉高の校内を、凛とした淑女たちが闊歩する。女性はそばに男性がいるからこそ女性らしく美しく映えるものである。千葉高の男子生徒たちは、乗り込んできたすべての女子高生がとてつもなく可愛く見えたに違いない。
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