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華子は、スマホを耳にあてたまま、かばんを肩にかける。片手で私と恵麻にごめん、のジェスチャーをしながら出口へ走り出す。華子の通ったあとはいつも、いいにおいがする。きっとあの背中まであるつやつやの長い黒髪を洗っているシャンプーとコンディショナーの香りだろう。恵麻は残りのクロワッサンをほおばりながらもごもご言っている。
私はテーブルに開いて置いたままの赤い表紙の「パース!」と書かれた本に目を落とした。絵を描くなら知っておかなければと、最近、パースの勉強をしている。変な夢を見たのはこの難しい本のせいかもしれない。
クロワッサンをのみこんだらしい恵麻は紅茶をすすりながら、本のタイトルを読み上げた。
「ねえ、パースって何?」
食べ終わったお皿をうらめしそうに眺めながら、本をパラパラとめくる。
「絵を描くなら知っておかないといけないことで、まあ、早い話が近くの物は大きく見える、遠くの物は小さく見えるって話なんだけどさ。ややこしくてわかんない」
私は恵麻からパースの本を受け取り、10ページを開いて見せた。
「ふーん。近くのパンは大きく見える。遠くのパンは小さく見えるってことかぁ。あ、でも隣の人のパンは大きく見えるよ」
恵麻は私の皿に残っているチョコクロワッサンをじっと見つめる。
「はい、どうぞ」
一口だけ食べたチョコクロワッサンを恵麻の皿に移す。
「未来はさ、やっぱり絵描きたいの?」
絵は、好きだ。中学校まで、アニメのお仕事ができればいいなと思っていた。でも、通っている絵画教室では緻密な線画を描く下級生と自分の絵を比べていつもがっかりしていた。アニメ雑誌を開くと、私より歳下でプロが描いたと言ってもおかしくないような綺麗な絵を投稿している人があふれていた。親に「あんたには才能なんかない!」と言われたときには「ああ、そうか。才能がないのか」と変に納得してしまった。そして、親に内緒で取り寄せていた美術高校の入試要項を捨てた。そのときには、不思議と何も感じなかった。辛いとも悲しいとも。思い描いていた高校生活の写真が載った書類をゴミ箱に入れた、ただ、それだけだった。
「いとこの何ちゃんだっけ、マキちゃん?アニメーターさんだもんね。ていうか、アニメーターって何」
「真実ちゃん」
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