犬の日

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「寂しくなりますこと」 「そうでもない」 即答する夫の真意は違っている。 きっと落胆しきっている、あの小さい仔犬を一番気に入っていたのは夫なのだから。 今はぽっかり心に穴が空いた状態。 寂しがりやなのに寂しいと言えない……。素直じゃないんだから。 房江は風呂敷包みを指して言った。 「すり下ろしてジュースにしましょうか。この子のおやつになるわ。あなたも。一緒にどうです?」 「私はジュースはいらない」 「じゃ、食べやすく切りましょう」 さあさあ、上がってと玄関の引き戸に手をかけて、房江は言った。 「そういえば」房江は言った。 「名前、決めてなかったですね、あの子の」 そうだ。慎ははっとなる。 仔犬に名付けをしていなかった。 いつも『犬』と呼んでいた。 武からも犬の名前は聞かなかった。 いつ手放すかわからなかったから。 別れることがわかっていたから、あえてつけようともしなかった。 「わずかな間でも、名前で呼んでやればよかったかな」慎はぽつりと言う。 「次はそうなさればいいわ」 「もうごめんだな」 慎と房江は同時にクスリと笑った。 妻の腕の中でわんわんと泣く赤ん坊が泣き声をあげる、けれどそれに応えて鳴く犬の声はもうない。 丸い目、丸まった尻尾、まとわりついて離れない温かい存在。 仔犬の不在に慣れるまでしばらく掛かることだろうな。 「風が冷たい」慎は言う。 「中に入ろう、政が風邪をひくといけない」 慎は玄関先の引き戸を閉めた、妻と子供を促しながら。
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