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◇ ◇ ◇
尾上家では赤ん坊がわんわん泣き、犬もわんわん鳴く日がしばらく続いた。
早朝、あるいは夜に犬を散歩させ、縁側で米をつく慎の姿もしばらく見られた。
が、唐突に始まった犬との同居は唐突に終焉を迎える。
「迎えにきたよ!」
前触れもなく、親友……いや同僚の武が妻を伴ってやってきたからだ。
「本当に世話になったねえ、ありがとう! 迷惑かけたねえ。やっと住まいの目処がついたんだ。犬と暮らせるようになったから連れて帰るよ。慎先生のおかげだよ!」
はあ、とも、ああ、ともわからぬ返答で、慎は武を迎えた。
武の隣ではぺこぺこと、彼の妻が頭を下げていた。
「毎日顔を会わせているのだから、今日来るとか、事前に電話いれるとかしたらどうだね」
「うん、ごめんね。でもついさっき、大家から飼ってもいいって了解を取り付けたんだよ、善は急げっていうだろ?」
「まあ、そうだな」
急ぎすぎではないか? 慎は口には出さず内心で愚痴る。
「何? 先生、不満そうだね、あ、もしかしたら犬がいなくなると寂しいとか思ってる?」
「いや、そんなことはない」
つとめて抑揚なく返答する。
「会いたくなったらいつでも訪ねてきてくれ給え、学校から近いし、引っ越しもせずに済んだから住所は同じだよ。いやー、めでたい!」
あははと笑って、武夫妻は犬と伴って夕焼けの中家路につく、ありがとうーと手を振りながら。
「お客様ですか?」
房江は赤ん坊を抱いておっとり出てきた。
「ごめんなさい、気づくの遅くて……どうしました?」
引き戸を開けたまま、ぼーっと立つ夫に気遣わしげな視線を送る。
「どうしたって……何もない」
「いいえ、あったでしょう? そういえば、犬。どうしました?」
「帰った」
「帰った?」
「ああ。武君が奥方と一緒に来て、連れて帰った」
ほら、と手にもつ風呂敷包みは、犬と引き替えに武が慎に持たせたものだ。風呂敷の合間から漂う薫りは、果物の芳香。おそらくりんごが詰まっている。
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