カブトムシ

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まだ薄暗い明朝の山を下りていく 右手に虫網、左手に虫かご 虫かごの中に二三匹の 角を尖らせ元気な立派な カブトムシ 下りきったところにヤマオヤジの木 点滅する街路樹が木肌を照らし つややかに光る樹液の そのちょうど真下 蟻にたかられ指先を失い 羽をもがれて空も飛べない 角の崩れ去った瀕死の カブトムシ 切り崩され 切り離され 穴に引きずり込まれてなお 生きることをあきらめない 蜜を吸うため上へ脚を運ぶ 自らの運命に絶望していない カブトムシ そっと近づいて群がる蟻を指で払い 中身の見えた胴を掴んで 蜜の所へと運んでやる 弱々しくなってしがみつくのに一苦労のそいつを くっつくことができるまで支えてやる そいつは 次第しっかりとへばり付いて 半分無くなった角を上下に動かして 樹液を啜りはじめた 心に生まれる感動 必死に生きる姿を見て あきらめない姿を見て 胸に流れる涙 その表の素直な優しい心の裏で そいつを虫かごに入れる勇気のない 本当の僕 その醜い姿に養う気を失った僕 いずれ死ぬことを悟って 生物としての興味を既に失った僕 一個の命を価値として見て 冷酷に取捨選択を行える僕 転げ落ち再び蟻のたかりはじめるカブトムシを 時間の都合で見捨てられる僕 虫かごの中の元気なカブトムシとの生活を 楽しみにしてその場をうきうきと立ち去る僕 自分の心に初めて冷酷さを見つけた 偽善というものの正体を自分の心に知った 夜明け前の森 新緑の夏
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