あの日

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「僕は十八の頃、トマトのあしらわれた杖を買った。それは吉祥寺にある小さな雑貨屋でのことだった」 僕は、その時の情景をしっかりと覚えている。 いや、殆ど覚えていると言った方がよいのかも知れぬ。 それは、僕が18歳になったその日・・・僕は秋風に落ち葉が舞う駅前の通りを歩いていた。 人力車がカラカラと音を立てて走っていく見慣れた風景・・・。 僕が知っている大正後期の吉祥寺界隈は、『モボ』とか『モガ』と言われるお洒落な格好をした男女が自由闊達に目抜き通りを煌びやかに歩いている姿と、極貧の生活にあえぐ無産階級・・・そして、僕の様に地方では生活が出来ずに、上京してきた食い詰め者達が織り成す不思議なコラアジュの様な風景を醸し出していた・・・。 僕は、そんな混沌に支配されたこの町の中の雑貨屋・・・『東遥』という、古びた看板が軒先に架かった店に入って行った・・・。 買ったのは『トマトのあしらわれた杖』・・・30銭したかどうか・・・僕は、その杖を観た時興味はなかった・・・しかし、ああ・・・僕の記憶はこの辺りから欠落が激しいのです・・・誰か、そう・・・誰かと・・・その店に一緒に入った・・・顔も素性も思い出せないが・・・確かに馴染みの誰か(・・・そう・・・あれはよく知る少女だった・・・。)の勧めで購ったのです・・・。 その杖は・・・僕を・・・僕の生涯に不謹慎なまでに干渉し、僕の運命を大きく変えていったのです。
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