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◇ ◇ ◇
かつて野原家では犬を飼っていた。
時は戦時下だ。
連れて帰ったのは幸子だった。
ひろったのは近所の空き地で、お使いの帰り道だった。
子犬はころころむくむくの身体で鞠のように飛び跳ね、真っ直ぐに幸子の方へ駆けてきた。
飼い主でも何でもないのに。変な子。
「おうちへお帰り」
手で払ってあっちへ行くように言っても聞く耳を持たない犬のこと。
まとわりついて彼女の後を追い、家の門までついてきてしまった。
案の定、父から叱られた。
「捨ててこい、犬を飼うゆとりはない」
当たり前だ、今は戦争の最中、どこの家庭も贅沢をいましめ、節制を求められている。
「ごめんね」
父の言いつけに素直に従った、仔犬を抱き、元いた空き地へ連れて行って地面に立たせた。
ぶんぶんと尻尾を振り、丸い瞳が彼女を見上げる。
君が好きだというように。
きゅうきゅう鳴く声に、心が痛んだ。
そんな目で私を見ないで。
「元気でね」
これが最後だからと、頭を撫でた。
子犬はワンとひと声吠え、撫でる手をペロペロ舐める。
生き物の温もりと一片の曇りもない好意は、少女の意気をくじくのに十分だ。
「私が食べる分をあげるから。お願い! 飼わせて下さい!」
土下座をするように台所の裏口で両親に懇願した。
二人は娘に捨ててこいとは言わなかった。
何につけても親の言いつけを守り、口答えを知らない娘が強く望んだ初めてのことだったからだ。
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