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珈琲とトーストの香りが漂う朝の食卓。
「今日は午後からの検査が少ないから、帰りはそんなに遅くならないと思う」
朝食を食べ終えた先生が、珈琲カップから口を離して静かな声で言った。
落ち着いた声色に重なって聞こえて来たのは、テレビから流れる子供達の笑い声。
リビングのソファーでは、保育園に行くための身支度を終えた咲菜ちゃんが、朝のNHK子ども番組をかじり付くように見ている。
「え?…ああ、帰宅時間の話ね。遅くならないって言っても、その後に雪菜さんの所に寄るから7時にはなるでしょ?」
テーブルを拭いていた私は前屈みになっていた体を起こし、彼を見て微笑みを浮かべる。
「なるべく定時で上がるつもりだから、その後に病院に寄っても7時前には帰宅できる。今夜は久しぶりに外食するか?杏奈も誘って」
「えっ、ホント!?だったら、杏奈さんには私からメールしておく。…あ、でも。明後日に帰っちゃうから、サロンの方が忙しいかな」
「忙しくてもメシ食う時間くらいは作れるだろ。それに、麻弥が誘えば直ぐに飛んで来る」
首を傾げ難しい顔をする私を見て、珈琲カップを置いた彼がクスッと笑った。
十月も残すことあと二日。
明後日、杏奈さんはついに日本を旅立ってしまう。
私がこの家に初めて訪れた日、玄関の扉を開けた瞬間に目に飛び込んで来たのが杏奈さんの姿だった。
「あなたが麻弥ちゃんね。私、杏奈。宜しくね!」と言って、突然抱きつかれた仰天のあの夜が、今ではとても懐かしく感じられる。
「…なに一人でにやけてるんだ?朝っぱらから如何わしい想像でもしてんのか?」
食器洗いをする私に視線を飛ばしながら、新聞を広げる先生が鼻で笑った。
「へっ?違います!如何わしい想像なんてしてません!ちょっと、思い出し笑いをしただけ」
「思い出し笑い?」
「うん、懐かしい思い出し笑い。…あ、今朝は雪菜さんの熱下がってるかな」
泡の立ったスポンジでお皿を撫でながら、ふと思い出したように話頭を転じた。
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