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「良かった~会えて。帰ろうとしたら、この書類を香川さんからお願いされて。私にはどう扱って良いのか分からないし、でも急ぎの書類だって言うから安藤さんに直接渡した方が良いかと思って…」
「この申請書類を香川さんから?」
七瀬さんが遠慮がちに差し出した紙を受け取り、それに視線を走らせる。
「はい。在宅酸素の導入の書類なんて処理したことが無いし、担当業者さんにもどう連絡して良いのか分からなくて。香川さん、今まで一度もそんな手続きを私に頼んだ事無いのに…」
どうしたんでしょうか?―――と、続けたい語尾を飲み込んで七瀬さんが難しい顔をする。
そんな理由は分かっている。
勤務時間を終えた派遣クラークを捕まえてでも、香川さんは私と関わりたくないだけだ。
【あの日】から、香川さんとの接触は更に消えた。ナースの立場を使って意地悪をしてくる訳でもなく、あからさまに無視をする訳でもなく、ただ単に彼女は私との接触を避けている。
先生には全てを知られ、私の前で涙を見せてしまったのだから、彼女の心境を考えれば無理も無い。
「……七瀬さんは正社員になろうとは考えて無いの?」
書類に視線を落としたまま小さな声を漏らす。
「へ?」
七瀬さんは突然放たれた私の言葉を聞いて、その脈絡の無さに驚きポカンとする。
「あ、ごめん。七瀬さんが正社員になってくれたら楽できるのにな~って思って」
私は手もとの書類を軽く丸めて彼女を見ると、冗談めかして「フフッ」と笑う。
「私が正社員になっても安藤さんの代わりは出来ませんよ。重要な書類を扱える資格まで取得してないし、ましてや一級クラークなんて私の頭じゃ無理です」
「そうかな~、七瀬さんなら行けそうなのに。まだ若いのに勿体ない」
「良いじゃないですか、このままで。私は安藤さんのサポート役で満足です。…でも、どうしていきなりそんな事を言うんですか?…もしかして、仕事が嫌になったとか?」
書類片手に苦笑する私をマジマジと見て、七瀬さんが眉根を寄せる。
仕事が嫌になった?――――まさか。
私はこの仕事に誇りを持っている。だって、医者と看護師が闊歩する院内で、誰が見ても地味なクラークの仕事でも、それを認めてくれる人がいてくれる事を知ったから――。
「仕事は嫌いじゃ無い。……でも、春になったら可愛い子猫が校門をくぐるの」
ふとガラス窓に映る空を見て呟きを落とす。
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