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「はっ?可愛い子猫が校門をくぐる?何の話ですか?」
彼女は眉間に刻むしわを深くして、首を傾げた。
「春にね、猫を飼うの。今可愛がってる子猫の姉妹になる子。今の生活から抜け出して、その子猫たちとのんびり暮らすのも悪くないな~って思えて」
「……はあ。…あれ?安藤さん、猫なんて飼ってましたっけ?初耳ですけど」
黄昏るように窓の外を見つめる私の横顔に七瀬さんが問う。
「うん、初めて言ったんだもん。とっても可愛い子猫ちゃんなのよ」
無邪気に飛び跳ねる咲菜ちゃんの姿を思い浮かべて、口もとを緩ませる。
「へぇ~。猫可愛いですからね。じゃあ、猫が二匹になるってことですね。でも…猫の世話のために仕事を辞めたいって事ですか?…あっ。それより、さっきの猫が校門をくぐるって何だろ」
七瀬さんは顔面に疑問符を貼り付けて、更に首を傾げブツブツと独り言のように言う。
「じゃあ、残業お疲れ様。この書類は貰って行くね。私が責任をもって提出しておくから」
言いだしっぺの私は悪戯心でニッコリと笑い、「また明日ね」と軽く手を振った。
「あ、はい。ではお先に失礼します」
狐につままれたような顔をしていた彼女。
訳の分からぬまま取りあえずの笑みを浮かべて会釈をすると、バッグを肩にかけ直し、いつの間にか丸め込まれたように来た方向へ足先を向ける。
同じ制服を着た華奢な背中を見送りながら、密かに深いため息を床に沈ませる。
――――三月末で退職を決心した事は、先生以外にはまだ誰にも言っていない。
退職は香川さんのマンションに乗り込みに行く前から考えていた事ではあったが、どんなにこの仕事が好きでも、病院の規模とスキルが惜しくても、気まずい思いをしてまでここにしがみつく意味が分からなくなってしまった。
心残りは、恋愛事情でこの大奥で共に戦ってきた七瀬さんを一人残して逃げる事と、仲良くなった患者さんと二度と会えなくなってしまう事。
喉元過ぎれば熱さを忘れる。――今は、自分にそう言い聞かせて静かに立ち去るしかない。
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