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正面玄関に続くホールを抜けて、夜間診療の出入り口から外に出る。
杏奈さんが乗る赤色のベンツを探して見渡すと、タクシー乗り場とバス停の間に駐車している車数台の中に、それらしき車種が見えた。
「杏奈さん、お待たせしました!」
駆け寄って運転席に杏奈さんの姿があるのを確認すると、肩で息をして助手席のドアを開けた。
「お疲れ様。…香川さんは?」
助手席に乗り込んだ私を見て杏奈さんが問う。
「まだ……。廊下でも見かけませんでした」
「……そう。まだ5分近くある。信じて待ちましょ」
二人はナビの右上に示される時計に視線を置いて、微かなため息を重ねた。
「あっ、咲菜ちゃんは?保育園にお迎えに行かないと」
「咲菜は既に早退させて、サロンのスタッフルームに預けてあるわ。スタッフが相手してるから大丈夫」
「そうですか。咲菜ちゃんは杏奈さんのサロンに……」
視線を杏奈さんの横顔からゆっくりと自分の足もとに落とし、腑に落ちない顔で語尾を濁す。
会話にしおりを挟むように黙り込んだ私。
「麻弥ちゃん?」
杏奈さんはその表情に込められた感情を読み取ろうとしているのか、私の横顔をジッと見つめ眉尻を下げる。
「……香川さんだけじゃ無い。先生も同じ。本当に咲菜ちゃんは雪菜さんを…お母さんを知らないままで良いんでしょうか」
僅かな沈黙を破ったのは、顔を曇らせ絞り出すように言った私の言葉。
「それはこの前、公園で麻弥ちゃんに話したでしょ?」
「それは分かってます」―――雪菜さんが、母親の資格がないと言われて当然の事をしたのは、十分に分かってる。
分かってるけど……
「いつか大きくなった咲菜ちゃんに母親の事を尋ねられた時、先生は『事故で即死だった』と、咲菜ちゃんに嘘をつくんでしょうか…」
「え……、それは……」
「私は、先生が後悔するんじゃないかって、それが心配なんです。
雪菜さんの時間が終わっても、残された先生がこれから先もずっと娘に嘘をつき続けるなんて、そんなの辛すぎるから……」
悲痛な感情に背中を押される私は訴えかける様に言って、杏奈さんを見つめ返すその目に哀しみの色を纏った。
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