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「……」
再び沈黙が降り下りる。
ロータリーを行き来する人の話し声や車のエンジン音の単調なざわめきが、鈍い渦となって車内に流れ込む。
遠くから近づいて来る救急車のサイレンの音は、私と杏奈さんの間に緊迫感を与えているように聴覚に響いてくる。
「それを決めるのは正臣よ。私達が口を出せる事じゃ無い」
救急車が搬送専用の扉の前に止まったのを見つめ、杏奈さんが夕闇の中に声を落とした。
「もし、咲菜のためについた嘘で正臣が自責の念に苛まれても、それは正臣が一生背負うべきもの。正臣は心の内を明かさないけど、それも全て覚悟してるのよ」
「……」
「大切な者を守るためにつく嘘は過ちとは限らない。咲菜の親は正臣よ。正しい答えが見つけられない事だからこそ、私は姉として、弟の選択を見守りたいの」
杏奈さんは車窓から視線を外して、意を決した面持ちで私を見る。
大切な者を守るための…
咲菜ちゃんを守るための、父親としての嘘。
人の親になった事の無い私には、その感情も本当の苦しみも理解出来ないのかも知れない――
一点の曇りも無いその目に見つめられ、それ以上は何も言葉が探し出せない私はただ口を噤む。
「――時間になったわね」
「え……」
ハッとして時計に目を向ける。
「罪の意識が先立って親友の最期から目を逸らす。…それも一つの選択。そこに彼女なりの覚悟があるのなら、誰も彼女を責められない」
杏奈さんは静かな口調で言って、車のエンジンをかける。
そんな……香川さん……
眉間に深いしわを刻み、口をへの字に歪めて食い入るように前方に視線を飛ばす。
けれども、どんなに目を凝らしても行き交う人の中に香川さんらしき姿は見えて来ない。
「タイムリミットよ。行きましょう」
杏奈さんはそう言ってウインカーを点滅させると、ロータリーの出口に向かって車を走らせた。
赤いサイレン灯を回す救急車の横を通り過ぎ、国道に続く緩い坂を下っていく。
香川さん……
深いため息が落ちる。
車窓に目を向けたままの私は、後ろ髪を引かれる思いで小さくなっていく病院の扉を見つめていた。
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