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「先生……」
―――大丈夫?と、声を掛けそうになった私。けれども、その言葉が気休め以上に無意味なものに感じて、咄嗟に喉まで上がった声を飲み込んだ。
杏奈さんも同じ思いなのか口を閉ざし、彼に目を向けたまま二人のもとに近づいて行く。
「杏奈、咲菜はどうした?」
「うちのスタッフが見てくれてる。咲菜の事は心配しないで」
杏奈さんはそう言って、彼の肩にそっと手のひらを乗せた。
私は見ていたモニター画面から先生へと視線を移し、彼を見守るその瞳に憂いを滲ませる。
「そうか、いつもすまないな。杏奈がアメリカに立つ準備で店も忙しいのに…」
「いいのよ、そんな事。…それより、雪菜ちゃんの様子はどうなの?」
「低空飛行のままだ。血圧は60台で動かず、心拍は頻脈と徐脈の変動が激しい。…もう心臓も限界だ。それなのに……、最期まであがいてるようだな。この世への未練が命を繋いでるんだろう」
彼は雪菜さんを見つめながら言葉を連ねて行くと、皮肉とも取れる不適な笑みを浮かべて目を伏せた。
この世に対する未練―――未練が命を繋いでる?
体が急にカッと熱くなり、頭の天辺から足の爪先まで得体の知れない痺れが走った。
心の奥底に押し込めたくても押し込められない感情が再び溢れ出し、私を突き動かそうと背中を押す。
「…だとしたら、咲菜ちゃんでしょ?…きっと、雪菜さんは最期に咲菜ちゃんに会いたいのよ。一時の気の迷いで過ちを犯してしまったとしても、雪菜さんは母親。誰よりも咲菜ちゃんを愛してるに決まってる…」
ベッドの足もとに立ち竦む私は雪菜さんを見つめ、放心したように途切れた言葉を滑り落とした。
「麻弥ちゃん……」
「ごめんなさい!杏奈さん。杏奈さんが言いたい事は分かってます…往生際が悪いのも十二分に分かってます。だけどっ」
「会いたいのは咲菜でも俺でも無い」――私と杏奈さんの間に割り込んで来たのは、地を這うような声。
「先生?…」
私は喉まで上がった声を飲み、戸惑う唇を塞ぐ。
「雪菜が会いたいのは、最後に優しく抱いてくれた男だ。あの夜から雪菜の意識はここには無い。雪菜は、今でも好きな男が迎えに来てくれるのを待ってる。…そうだろ?雪菜」
彼はゆっくりと椅子から立ち上がると、横たわる雪菜さんを見下ろして口端を歪めた。
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