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「麻弥ちゃん……あなたって子は…」
杏奈さんは迫り上る感情を押し込めるかのように口もとに手を当て、目を潤ませる。
「……駄目だ。それは出来ない」
「どうして?…どうして出来ないの?咲菜ちゃんの事を思うなら、残酷な真実までも明かさなくても良い。同じ嘘を背負って行く覚悟なら、一言で良い。『お母さんは咲菜を愛していた』と、あなたが咲菜ちゃんに伝えてあげ――」
「駄目だ!俺にはそんな嘘は言えない!」
必死に縋るような涙声を打ち消したのは、病室の空気を一瞬で凍りつかせる荒々しい声。
私はビクッと体を硬直させ、零れ落ちる涙もそのままに口を引き結ぶ。
「雪菜は咲菜を捨てたんだ…子供を捨てた親に愛を語ってやる資格なんて無い。
俺は憎しみを堪えて雪菜を看取ると決めた時、許したんだ…好きな男の夢を見ながら、永遠の眠りにつくことを」
先生…だけど……嫌だよ……
このままじゃ、先生の心が壊れちゃう……
漏れ出す嗚咽を手で塞ぎ、彼を見つめる事すら出来なくて、絶望感に覆われる私は目を伏せる。
―――その直後、
「先輩、違うの!雪菜が愛しているのは家族だけなの!」
扉が開かれると同時に、悲痛な叫びが響き渡った。
「葵ちゃん?君がどうしてここに…」
目を見張る彼の口から、驚きの声が落ちる。
開けた扉の前に佇むのは、バツが悪そうに顔をしかめる香川さんの姿。
「ごめんなさい。全ては私のせいなの…」
「え?」
「雪菜が過ちを犯したのは事実。だけど、雪菜は自分が犯した過ちを悔やんで男と別れようとしてた。それなのに…私が二人の別れを止めようとした。あの事故も、私のせいなの…」
今にも泣きだしそうな顔をして、怯える様に体を縮める香川さんが声を絞り出す。
「事故が葵ちゃんのせい?…それは、どう言う事だ?」
誰もが愕然とする中で、沈黙の糸を断ち切ったのは先生の低い声。
私と杏奈さんは驚愕のあまり声も出せず、固唾を飲んで香川さんを凝視する。
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