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指圧で優しくマッサージをしながら、指先から腕に向かって拭いて行く。
骨と皮の感触しかない彼女の手。
愛する娘と繋ぐ筈のこの手のひらは、事故に遭って以来一度も愛娘に触れていない。
雪菜さんを夫として看取る決意をした今でも、先生はこの部屋に咲菜ちゃんを連れて来ようとはしない。見える姿は変わってしまっても、今もこうして生きている母親の存在を打ち明けようとはしない。
彼はそれを『咲菜を混乱させないためだ』と言うけれど、本当はそれだけでは無い気がする。
先生が言う様に、咲菜ちゃんの記憶の中に雪菜さんは残っていないのかも知れない。
例えそうだとしても、
本当に咲菜ちゃんは母親を知らないまま成長して良いのだろうか……
今はまだ幼くて何も解らなかったとしても、せめて母親が生きているという真実を知る権利はあるのでは無いだろうか……
私が口を挟んではいけない事だと分かっていているから尚の事、消化出来ない複雑な思いが胸の中に募っていく。
彼女の手を擦る私の頬に柔らかな秋風が触れ、水の上に浮かぶキンモクセイの香りは鼻腔を擽る。
「……雪菜さん、気持ち良いですか?」
私は心の奥に燻る暗い感情を押さえ込み、深い眠りの中に居る彼女に静かな笑みを向けた。
雪菜さんに退室の挨拶をして病院の玄関扉を抜けると、淡い日差しが私を照らす。
「……」
何もかも吸い込んでしまいそうな空の蒼にため息を吐いて、私はバス停に向かおうと歩き出した。
「ま――やぁ!!」
突然、背後から聞こえてきた甲高い声。
驚き後ろを振り返ると、駐車場から私に向かって一直線に駆けて来る少女の姿が目に映る。
「咲菜ちゃん!?どうしたの?杏奈さんは?」
私の胸に飛び込んで来た少女を抱き止めて、目を丸くする。
「あんな、あっち!」
私にしがみつく咲菜ちゃんは笑顔を溢れさせながらそう言って、小さな指で自分が走って来た方向を指差した。
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