【3】 出合い

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戦時下の傷跡を随所に残す建物は、修繕もされず、そのまま使われている。 まだ去年は戦争の最中だった。私は小母とふたり、戦火の中を右往左往していた。家に火が燃え移りそうになって、必死で火を消した。 半分以上焼け落ちて、小母は泣いた。でも雨露はしのげるとふたりで泣き笑いした―― まだ1年と経っていないんだ。 重い扉を開けた建物の中は埃っぽかった。 縁台の上には、これまた埃まみれの一台のピアノがすすけていた。 ピアノ。 懐かしい。 まだ女学校に通い、犬を飼うまでは自宅で弾けたけれど……。友達に頼まれてバレエの伴奏をしたことなど、何十年も昔のようだ。 上京してこのかた、もう何年も弾いていない。 私……弾けるかしら。 足音を忍ばせ、縁台の段を踏みしめる。 椅子の埃を片手で払って、蓋を開けた。 置物として置かれていたんだろうかと思えるくらい、鍵盤はきれいだった。 ひとつ、ふたつ、みっつ。キーを叩く。音はしわがれて調子外れもいいところ。 まったく調律が入っていないピアノはみじめな存在だ。 かわいそう。 こんな所にうち捨てられて。 まるで私みたい。お仲間ね。 私が弾いてあげる。 慣らすように、指を走らせた。 ぎしぎしと軋む音が哀れで、気がついたら夢中になって弾いていた。 ピアノを習い始めの頃、山ほど弾かされた練習曲。譜面がなくても空で弾けるくらい、何度も弾いた。嫌でたまらなかったのに、まっ先に出てきた曲。不思議とするすると弾けた。 発表会で練習した曲。吐き気がするくらい弾かされた。大キライになった。けど、嫌がっていた曲が今は懐かしい。 そして、友人がレッスン曲だからと嫌がっていた、ショパンのノクターン。 いつも同じ所を間違えて、いつも同じ指摘を受ける。身構えるからなおさら間違えてしまう、と。 私は好きよ、と言ったら、踊ったことがない人にはわからないわ、と言い返された。 彼女の気持ちが今なら良くわかる。 嫌なものほど記憶に残り、身体に染みついて離れない。けど、帰り着くのは多分、散々練習してきた曲と踊りなのだ。
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