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その日の夜、幸子は夢を見た。
彼女の前を、彼が軽やかに走って行く。
幸子は足の速さが自慢だった運動会での徒競走やリレー競技では誰にも負けたことがない。
「さっちゃん、がんばれ!」
旧友からの応援は何より励みになったし、必ず応えられる自信があった。事実、彼女の足について来れる同級生は女子の中にはいなかった。
誰かの背中を追って走るなんて、初めてのことだ。
駆け足なら誰にも負けないのに、悔しい。
幸子は必死になって走った。
彼は言う。
君は僕に敵わないよ、どんなにがんばったって無駄だよ。
だから、野心を持つのはお止め。
さっさとどこかへ嫁に行くといい。
何なら、僕がもらってやろうか?
――ふざけないで!
叫びたいけど、彼には届かない。
くやしい。
私、あなたにだけは絶対負けないんだから!
じたばたと足を動かしていたんだろう、その駆け足で目が覚めた時、夜が明けていた。
おはよう、と言って台所へ降りてきた姪の顔を見た小母は、ぎょっとした顔をする。
「どうしたの、こわい顔して」
幸子の顔は、まるで鬼瓦のように強張ったものになっていた。
「だって、これから戦いに出るんだもの。気合いを入れて引き締めているの」
「まあ、勇ましいこと」
幸子用の茶碗に麦ごはんをよそいながら、小母は言う。
「でも、もう戦争は終わったのに。勝ち負けだけが全てじゃないでしょ、さっちゃん」
「流される一方はイヤだもの」
箸を動かしながら幸子は答える。
「バカ利口になってもいいのよ、人生は」
「はいはい」
ごちそうさまをして、ぱたぱたと小走りに鏡台の前へ行き、身だしなみを何度も確認した。
服は清潔で手入れをちゃんとした。髪もきちんとまとめた。
化粧はいらないと思ったけれど、女の最低限の身だしなみよ! と小母に強く言い切られ、仕方なしに軽く白粉をはたくぐらいに留めた。
靴もちゃんと磨いてある。靴下も伝線ひとつない。
持ち物にも忘れ物はない。
完璧。
どう? と見せに行った小母も肯定のうなずきをくれた。
「昨日以上にスキのひとつもなくて。――幸子ちゃんらしいわ」
「うん、ありがと。行ってくるわね。夕ご飯の頃には戻ってます」
「まあ、今日は顔合わせなのでしょう? 他の学生さんとゆっくりお話ししてらっしゃいな」
「――そんなお友達、きっとできないわ」
幸子はひらひらと手を振り、小母の家を後にした。
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