第1章

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・90年代後半までと、2000年代以降の違い  菅野よう子がオーケストラ仕事を初めてしたのはナベシンさんが監督した『マクロスプラス』のサントラでイスラエルフィルと組んだことがきっかけである(つまり実は菅野さんもちゃんとオーケストラアレンジをやるようになってから20年ちょっとということ)。  菅野よう子のオーケストラワークと言えば『マクロスプラス』と『エスカフローネ』そして『∀ガンダム』を挙げるひとが多いだろう(『マクロスF』なんかでもやっているけれど、ほかの作品は「それ以外」の曲の印象のほうが強い)。  つまり90年代の菅野仕事をほうふつとさせるものである。  今では考えられないことだが、90年代後半まで、アニメや声優の音楽は音楽ジャーナリズムでは軽くみられていた。  その偏見を崩したきっかけが菅野よう子の一連の仕事であり、菅野プロデュースで発売された坂本真綾の2ndアルバム『DIVE』(98年発売)だった。  菅野/坂本作品は『CDジャーナル』や『ミュージックマガジン』などで高く評価され、アニメの劇判や声優の曲に対する注目を集めさせるひとつのきっかけになった。  今ではクラムボンが『花咲くいろは』などアニメのオープニング曲を手がけるようになったし、ミトさんはアニメ好きを公言していてアニメ仕事も多い。  だが個人的な記憶をたどれば、90年代後半にクラムボン『JP』(99年発売)の話と坂本真綾『DIVE』の話をできるひとはまったく別々だった。  しかし今ではクラムボンと菅野よう子が合流してしまう。  時代は変わった。  合流するに至る時代のうつりかわり、マクロのトレンドの話にはここでは深くは立ち入らない。むしろ20年やってきてこういうところに至ったクラムボンの、とくにミトさんのバランス感覚――いい意味でのミーハーさの話をしてみたい。  なおこの原稿の前ふりが長いのは、プログレを意識した仕様です。
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