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高井祥子は驚いた私の顔を見上げながらニヤニヤと笑った。 『未婚の母なんですぅ。結婚できない人だから。でも幸せです、私。本当に好きなひとの赤ちゃんだから。キャハハハ』 『父親は誰なの』造影検査で流れがよくなり妊娠しやすくなるというゴールデン期も私は妊娠できなかった。でもその一方で仕事は順調だった。私も厨房を覚え、ホールに出してもらえるようになった。高井祥子が着ていた同じ柄の淡いグリーンのベスト、ユニフォームだから仕方ないとは言え、気持ちが悪かった。私の黒髪にはグリーンは合わず、休憩室の壁の見本ポスターのようにダサく浮いていた。そして時折、あの下品な笑いかたを思い出させた。キャハハ、キャッハハ、と甲高い声で人を見下すように笑うあの声。私には似合わないユニフォームだと空耳で私に訴える。 8月の昼下がり、真上から太陽がきつく照らすから、街路樹のサルスベリの影は小さいくせに、濃く、日向とのコントラストは砂嵐のようで目をチカチカさせた。夏は苦手だ。エアコンが効いた客席にいても貧血を起こしそうになる。 ホールで仕事をしていると、ガラスの向こうの歩道に背の低い女が歩いていたのが目に入った。優雅に日傘を差してのそのそと歩いていたが、若い女だった。見覚えのある金色の髪は肩まで伸びて、こめかみの高さで色はツートンになっていた。ゆさゆさと腰を揺らしているというよりはお腹を突きだして重たげだ。ノースリーブのチュニックにも見えるがおそらくマタニティ服だ。 高井祥子は妊娠していた。私は店を飛び出して彼女を追いかけた。 ……暑い。 『ねえ!』 『あ、森さん。今は宮原さんでしたっけ。ごめんなさい、間違えたあ、キャハハー』 店の数メートル先で追い付いて声を掛けたが彼女は相変わらずだった。タバコの匂いはしない。しいて言うならミルクのような甘い香りがした。以前と変わらず私を上目づかいに見上げて、にやりと笑う。どうしてこの女は私の手に入らないものをこうも軽々と手に入れるのか。これみよがしに見せつけるのか。大きなお腹を両手で擦る。 『臨月なんですう。もう重たくて重たくて』 『高井さんも結婚したの?』 『ううん、してなーい』 『教えません。ふふふ。宮原さんも知ってる人だったりして?』 そう言って祥子は会釈をして歩いて行く。アスファルトからの照り返しは強く、祥子のあたりには逃げ水が浮かび上がる。未婚の母、相手が結婚できない人というなら既婚者か。店長、SVと不倫癖のある彼女なら当然の結果だけれど、まさか……。とんでもない推測が私の脳裏を過り、私は再び彼女を追いかけた。 『ねえ! 私が知ってるひとって、まさか』 『キャハハ。教えないって言ったでしょ。教えたら相手の人に迷惑掛かるから』 『ちょっ……ねえ! あなたまだ遼平と』 『宮原さんはまだですかあ? 宮原さん、ご主人の方の宮原さん、子供好きそうなのに。可愛がってくれそうですよね。奥さんが不妊なら余所でつくるしかないですからぁ』 『不妊って、なんで知ってるの』 『テキトーに言っただけです。そんなんだぁ。あーあ、宮原さん可愛そう』 彼女は同情する言葉とは裏腹にけらけらと肩を震わせて笑っている。私はその仕草にかっとなり、彼女の胸倉を掴んだ。万一、遼平と関係していて、遼平の血を引く命がそこにあるとしたら……。
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