てんびん

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「そうですか? でも戦地にいる方ですから、それなりの覚悟も準備もおありでしょう。 それに遠い異国の方です。貴方様とは一生接点はありませんし、 例え何かあってとしても、それは貴方様のお耳には届かない。つまり」  男の声は、川内の脳裏に催眠のように浸透する。  罪悪感が削がれ、通販番組のセールストークのような 誘惑をも秘めていた。 「貴方様の所為ではない」 「いやでも、それは」    ぎりぎりの理性が、それを拒んだ。  誰かを殺して生命を復活させることが、本当に正しいのだろうか。 「これは、二度とないチャンスなのですよ。 考えてもごらんなさい。残された貴方様の奥様は? お嬢様は?」    川内は、ふたりの姿を思い描いた。  今年六歳の愛娘は心臓に重い疾患があり、移植を待っている。  容姿は妻に似て愛らしく、治療に耐える様は健気で愛しい。 「……お嬢様の心臓移植、渡航準備も順調ですよね」 「どうしてそれを」 「それは企業秘密ですよ。セールスマンの腕の良さ、とでもご承知頂きたい」  男の言葉は、更なる誘惑を含めて甘くなる。 「元気に成長したお嬢様は、どんなレディになられるのでしょうねぇ」 「……やめてくれ」 「奥様はまだお若い。とても仲が良いと評判ですねぇ。 さぞかし悲しまれるでしょう。いやはや立ち直れるのでしょうか」 「やめてくれ」 「さあ、ご決断を」  川内は、差し出された契約書にサインをした。 男は優美な笑顔でそれを眺め、深いお辞儀とともに姿を消した。  目覚めた時、白い空間がぼんやりと映った。 次いで見知った顔が、安堵に変わるのを意識する。  枕元で、妻が人目をはばからず泣きじゃくっていた。  勢いのついた大型トラックによる追突、 乗っていた車は原形を留めていないプレス状態。  それでも、偶然できた隙間に入り込み、 奇跡的に生命を取り留めたと聞かされ、 川内はあの男との遣り取りを思い出した。  単なる夢の中の出来事のようにも思えるが、 事故現場の悲惨な状況を聞かされると、とても夢とは思えない。
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