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「…傘なんて、持ってなかった。 知らなかったんだ、降るだなんて。 …暫く気付かなくて…夢中だったから…気付いた時には、どうしようもなく濡れてた」
無機質な薄い唇が開き、そこから言葉が発せられるのを、僕は奇跡を目にする心持ちで聴いた。
人々の足音や話声が間断なく響く構内に居るのに、彼が話し出した瞬間、全ての音が消えた気がした。
低く、柔らかく、安定した声だった。いつまでも聴いていたいような。
…こんな声に、名前を呼ばれたら?
おかしな想像をしてしまった自分を、僕は恥じた。彼に悟られまいと平静を装い、なるべく親しげな笑みを湛えながら質問を続ける。
「家は遠いの? 遠いなら…」
言いかけたとき、背後から誰かが僕の肩にぶつかり、あからさまな舌打ちをされた。
そこで僕は、我に返った。
…僕は彼に、何を言おうとしていたんだ?赤の他人の、名も知らぬ彼に。
自分の浅はかさに目眩がした。
僕は彼に、何を求めているんだ。羞恥に顔を伏せ、今すぐここから立ち去りたくなった。
「…ここは邪魔になるみたいだね。 隅に移ろうか」
しかし、ふいに降り注いだ優しい声が、僕をこの場に留まらせた。
クイ、と腕を掴まれて、驚いて顔を上げた僕に構わず、彼は片手に革靴を持ち、裸足のままペタペタ歩き出した。躊躇いながらも僕はそれに続いた。触れ合ったところからブワリと花が咲いていくみたいに…全身が歓喜していて、僕は戸惑っていた。
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