#1 孤島と雑踏と

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「…傘なんて、持ってなかった。 知らなかったんだ、降るだなんて。 …暫く気付かなくて…夢中だったから…気付いた時には、どうしようもなく濡れてた」 無機質な薄い唇が開き、そこから言葉が発せられるのを、僕は奇跡を目にする心持ちで聴いた。 人々の足音や話声が間断なく響く構内に居るのに、彼が話し出した瞬間、全ての音が消えた気がした。 低く、柔らかく、安定した声だった。いつまでも聴いていたいような。 …こんな声に、名前を呼ばれたら? おかしな想像をしてしまった自分を、僕は恥じた。彼に悟られまいと平静を装い、なるべく親しげな笑みを湛えながら質問を続ける。 「家は遠いの? 遠いなら…」 言いかけたとき、背後から誰かが僕の肩にぶつかり、あからさまな舌打ちをされた。 そこで僕は、我に返った。 …僕は彼に、何を言おうとしていたんだ?赤の他人の、名も知らぬ彼に。 自分の浅はかさに目眩がした。 僕は彼に、何を求めているんだ。羞恥に顔を伏せ、今すぐここから立ち去りたくなった。 「…ここは邪魔になるみたいだね。 隅に移ろうか」 しかし、ふいに降り注いだ優しい声が、僕をこの場に留まらせた。 クイ、と腕を掴まれて、驚いて顔を上げた僕に構わず、彼は片手に革靴を持ち、裸足のままペタペタ歩き出した。躊躇いながらも僕はそれに続いた。触れ合ったところからブワリと花が咲いていくみたいに…全身が歓喜していて、僕は戸惑っていた。
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