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サミュエルは不満げに何か言ったが彼は聞いていなかった。男は身を乗り出し、私のおとがいを掴んで目と目を合わさせた。
「わたしはエルフレッド王国の王―ミッチェル・アレグザンダー・エイレム・エルフレッドだ。覚えておけ、女」
ミッチェルの表情が名を名乗るように促している。だがこのときばかりは声が出なかった。近くで見る彼の瞳は、深く底知れない琥珀色だった。色濃い樹液に守られたその奥には何があるのだろう。中を覗き込んだ者を惹きつけずにはおかないその色合いに溺れていた。
目は心の鏡…。ふとそんな言葉が浮かんだ。痴漢魔は―ミッチェルは、それほど悪い人ではないのかもしれない。
「…ルシア」
「それがお前の名か?」
可能な範囲で頭を縦に振った。
ミッチェルは手を離し、座席に戻った。
「ルシア。光という意味だな―綺麗な名だ」
彼は舌先で転がすように何度か名前を呟き、満足げに頷いた。
彼の舌に載った名前は何だか違うもののように聞こえた。
「ありがと」
「ずいぶんしおらしくなったな。どういった心境の変化だ―」
ミッチェルが恐怖に近い表情を浮かべた。
「まさか馬車に酔ったんじゃないよな? 間違ってもここで吐くなよ」
「ええ、そのまさかなの。もどされたくないならほっといて」
彼が話しかけないでくれるならどう思われようがかまわなかった。恐ろしかったのだ。彼に近づきすぎれば傷つくことになるような気がした―身体ではなく、心が。
またあの琥珀色の深みにはまるのが怖くて、揺れる風景を眺めた。変わった服の人々が、まるでテレビコマーシャルのように現れては消えていく。本当に酔ってしまいそうになり目を閉じると、今日の不思議な出来事が、まぶたの裏に鮮やかに蘇ってきた。
「また連絡するね、じゃあ」
二次会へ向かう、春の夜風に吹かれただけで倒れてしまいそうなほど酔っ払った同級生たちと別れた。
高校の同窓会で久しぶりに会った彼らは、社会に出たことでどこか変わったようにも見え、アルコールに煽られて馬鹿騒ぎしている様子は、あのころと同じように変わっていないような心細い気持ちがした。
私もどこか変わったのかな。同窓会は高校の制服姿で会おうと約束していたから、私たちは皆一様に紺色のコスチュームを身に着けていた。
喪失とは寂しいものだ、だが一方で余白が生まれ、新たな自分を構成する要素を取り込むことが出来る。
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